「声の墓場だってさ。面白そうじゃん?」
サークルの後輩、ユキがそう言ってスマホの画面を見せてきたのは、夏の蒸し暑い夜だった。画面には、鬱蒼とした森の中に佇む、コンクリート造りの無骨な建物が写っている。かつて気象観測に使われていた施設で、今は廃墟。しかし、ただの廃墟ではないらしい。
『そこには、訪れた者の“最後の声”が記録される』
都市伝説好きの僕、健治の心を掴むには、あまりに魅力的な謳い文句だった。週末、僕とユキ、そして運転役の友人、亮の三人で、件の観測所へ向かうことになった。
山道は予想以上に険しく、車を降りてから三十分は歩いただろうか。湿った土と腐葉土の匂いが立ち込める中、それは姿を現した。蔦に覆われ、壁の一部が崩落した観測所。威圧感と、何かを拒絶するような静寂が、僕たちを包んだ。
錆び付いた鉄の扉は、力を込めると鈍い音を立てて開いた。中はひんやりとしていて、カビの匂いが鼻をつく。懐中電灯の光が円を描き、観測機器の残骸や散乱した書類を照らし出した。そして、僕たちはそれを見つけた。
部屋の一面を埋め尽くす、スチール製の棚。そこに、まるで標本のように整然と並べられた、無数のカセットテープ。
「うわ、すげえ……」
亮が感嘆の声を漏らす。テープの背には、手書きで日付と謎のアルファベットが記されていた。一番手前の棚から、僕は一本のテープを抜き取る。日付は、三年前の今日。
「……再生してみないか?」
好奇心は、恐怖に勝った。部屋の隅に、幸いにもバッテリーが残っていたらしいポータブルカセットプレーヤーが落ちていた。テープをセットし、再生ボタンを押す。
ジー……というノイズの後、掠れた男の声が聞こえてきた。
『……だめだ、開かない。どうして……おい、何かいる。そこに、何かが……うわああああ!』
絶叫。そして、テープが切れるようなノイズ。僕たちは顔を見合わせ、息を呑んだ。これは、悪趣味ないたずらか?
「こっちにもある!」
ユキが別の棚からテープを手に取った。日付は、なんと一週間後。未来の日付だ。馬鹿な、と思いながらも、僕たちはそのテープを再生した。
『……健治先輩、どこ? 亮さんは? ねぇ、返事してよ! いや、来ないで! こっちに来ないでぇっ!』
それは、紛れもなくユキ自身の声だった。悲鳴と嗚咽にまみれた、絶望の声。ユキの顔から血の気が引き、カセットプレーヤーを取り落とした。ガシャン、と不快な音が響く。
「帰ろう。今すぐここを出るんだ」
亮が冷静に言い、僕たちは扉へ駆け寄った。しかし、あれほど簡単だったはずの鉄の扉が、びくともしない。まるで、外から溶接でもされたかのように。
パニックに陥るユキをなだめながら、僕は必死に考えた。この現象のルールは何か。声が記録される? 未来の声まで?
その時、ふと気づいた。棚の最上段、一番奥に、一本だけ他とは違うテープがあることに。背には何も書かれていない、真新しいテープ。日付も、記号もない。
「……これだ」
僕は椅子を足場にして、そのテープを手に取った。これだけが、まだ何も記録されていない「空き」なのではないか。もし、このテープに何かを吹き込めば、この呪われた連鎖を断ち切れるかもしれない。
「二人とも、静かにしててくれ」
僕はプレーヤーを録音モードに切り替え、テープをセットした。そして、マイクに向かって、できるだけ落ち着いた声で語りかけた。
「僕たちは、無事にこの観測所から脱出した。もうここへは二度と来ない」
希望を込めた、未来の「記録」。これで、僕たちの運命は「脱出成功」に上書きされるはずだ。僕は録音を止め、安堵の息をついた。
その瞬間だった。
観測所全体が、キーンという耳鳴りのような高周波に包まれた。そして、目の前のカセットプレーヤーが、勝手に動き出したのだ。
カチリ、と小さな音を立てて、録音ボタンと再生ボタンが、同時に押し込まれた。
『僕たちは、無事にこの観測所から脱出した。もうここへは二度と来ない』
僕自身の声が、スピーカーから響き渡る。だが、それは僕が録音した声ではなかった。冷たく、感情がなく、まるで機械が読み上げるような、抑揚のない声。
そして、その声に重なるように、別の音が録音され始めた。
僕の、喉から迸る絶叫が。亮が扉を叩き続ける音が。ユキが泣きじゃくる声が。
僕たちの「今」が、リアルタイムでテープに吸い込まれていく。空白だったはずのテープに、僕たちの絶望が「標本」として刻まれていく。壁の棚が、カタリと音を立て、新しいテープを収めるためのスペースを一つ、空けたのが見えた。
ああ、そうか。ここは「声の墓場」じゃない。
ここは、新鮮な絶望を収穫し続ける、「音の苗床」なのだ。
音の墓標
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