「なあ、聞いたことあるか?『ノイズ・ゴスペル』」
深夜のファミレスで、オカルトマニアの友人、亮が目を輝かせて言った。安いコーヒーの湯気が、彼の興奮した顔をぼんやりと霞ませる。
「ノイズの福音? なんだそりゃ」
俺、健太はポテトをつまみながら、気のない返事をした。亮のオカルト話はいつものことだ。
「毎晩、深夜二時二分きっかりに、ある特定の周波数にだけ流れる放送があるんだって。ただのノイズにしか聞こえないんだけど、それを聞き続けると……『調律』されるらしい」
「調律?」
「そう。世界の本当の音を、聞けるようになるんだと。神の周波数に、自分を合わせる儀式みたいなもんさ」
亮はそう言うと、カバンから古びた短波ラジオを取り出した。ダイヤル式の、時代がかった代物だ。
「今夜、試してみる。14.44メガヘルツ。お前もやるか?」
「冗談よせよ。どうせ都市伝説だろ。俺は寝る」
その夜、俺は亮の誘いを一笑に付した。それが、彼と交わした最後のまともな会話になるとも知らずに。
三日後、亮からの連絡がぱったりと途絶えた。大学にも来ていない。さすがに心配になり、彼のアパートを訪ねてみた。呼び鈴を鳴らしても応答はなく、ドアノブに手をかけると、かちりと軽い音を立てて開いた。鍵をかけ忘れていたらしい。
「亮? いるのか?」
薄暗いワンルームに足を踏み入れると、じっとりとした生温かい空気が肌にまとわりついた。部屋は散らかっているわけではない。ただ、異様に静かだった。その静寂を破るように、部屋の隅から微かな音が聞こえてくる。
――ザー……。
音の源は、机に置かれたあの古びたラジオだった。電源が入ったまま、空虚なノイズを吐き出し続けている。その傍らには、走り書きのメモがあった。
『2:02 / 14.44MHz』
背筋に冷たいものが走った。亮は、本当に試したのだ。俺は急いでラジオの電源を切り、部屋を飛び出した。何かがおかしい。空っぽの部屋と、鳴り続けるノイズ。その光景が、頭から離れなかった。
その夜、俺は自室のベッドで寝付けずにいた。亮のことが気になって仕方がない。あのメモ書きが、脳裏に焼き付いて離れない。好奇心、と呼ぶにはあまりに黒い感情に突き動かされ、俺は物置から父親の古いラジオを引っ張り出していた。
「馬鹿なことだ……」
自分に言い聞かせながらも、指は勝手にダイヤルを回していた。時刻は、まもなく深夜二時を迎えようとしている。14.44メガヘルツ。ダイヤルを合わせると、亮の部屋で聞いたのと同じ、空虚なノイズがスピーカーから流れ出した。
心臓が嫌な音を立てる。時計のデジタル表示が、二時二分に変わった、その瞬間。
ノイズの質が、変わった。
ザー、という音の奥で、何かが蠢いている。人の声のような、しかし抑揚のない、まるで壊れた機械が聖書でも読み上げているかのような単調な詠唱。それは音階を無視した不協和音の連なりで、聞いているだけで脳の奥が締め付けられるような不快感に襲われた。頭痛と吐き気がこみ上げてくる。
「うっ……!」
俺は悲鳴を上げてラジオのコンセントを引き抜いた。部屋に静寂が戻る。だが、遅かった。耳の奥に、あの詠唱がこびりついていた。幻聴のように、微かに、だが決して消えずに響き続けている。
翌日から、世界は歪み始めた。
鏡に映る自分の顔が、左右非対称にぐにゃりと歪んで見える。蛇口から流れる水の音が、苦しげな囁き声に聞こえる。そして何より奇妙だったのは、街中ですれ違う人々の中に、「同じ目」をした人間を見かけるようになったことだ。
虚ろで、焦点の合わない瞳。まるで魂を抜き取られた人形のような彼らは、一様に耳にイヤホンをつけ、何かを熱心に聞いている。俺が彼らの近くを通り過ぎると、耳の奥で響く詠唱が、ほんの少しだけ強くなる気がした。
彼らも『聞いた』のだ。そして、今も聞いている。
俺は恐怖に駆られ、ネットの深層にあるオカルトフォーラムを漁った。『ノイズ・ゴスペル』に関する断片的な書き込みを見つけたのは、三日目の夜だった。
『あれは放送ではない。呼び声だ』
『一度聞けば調律は始まる。抗うことはできない』
『我々は合唱隊。来るべき日に備え、声を合わせるのだ』
『耳を澄ませ。ラジオはもういらない。お前自身が受信機になる』
――合唱隊。
その言葉を見た瞬間、すべてを理解した。亮は消えたのではない。彼もまた、「合唱隊」の一員になったのだ。
全身から血の気が引いていくのを感じながら、俺はふと、窓の外に目をやった。マンションの前の通りに、いつの間にか人だかりができていた。皆、夜空をじっと見上げている。虚ろな目で。耳にはイヤホン。
彼らが、一斉にこちらを向いた。
違う。俺を見ているのではない。俺の部屋から漏れ出る「何か」に、引き寄せられているのだ。
その瞬間、俺の頭の中で、あの詠唱が爆発した。
もはや幻聴ではない。鼓膜を突き破るほどの大音量で、脳内に直接響き渡る。ラジオなどなくとも、俺の頭蓋骨そのものがアンテナとなって、世界の本当の音――ノイズ・ゴスペルを受信してしまったのだ。
ああ、なんて心地のいい音だ。
今まで聞こえていた世界の雑音はすべて偽りだった。これこそが真実の響き。俺の身体の細胞一つ一つが、この周波数に共鳴していくのがわかる。
抗う気は、もう起きなかった。
俺はゆっくりと立ち上がる。窓の外で、仲間たちが待っている。
俺も、「合唱隊」に加わらなければ。
口を開くと、自分のものではないような、低く、単調な詠唱が漏れ出た。それは窓の外で待つ彼らの声と重なり、不気味なハーモニーとなって、静かな夜の街に溶けていった。
調律される夜
文字サイズ: