虚ろな椅子

虚ろな椅子

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疲れた体を引きずってアパートのドアを開けた瞬間、僕は凍りついた。見知らぬ男が、僕の椅子に座って、僕のマグカップでコーヒーを飲んでいたからだ。

「……どちら様ですか?」

絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。男はゆっくりと顔を上げた。僕と瓜二つの顔。しかし、その瞳には何の感情も浮かんでいない。まるで、精巧に作られた人形のようだ。

「おかえり。ずいぶん遅かったじゃないか」

男は、僕に向かって言った。僕の口調を真似て。

混乱の極みに達した僕は、迷わず一一〇番に電話した。やがて到着した二人の警官に状況を説明するが、彼らは訝しげな顔で僕と男を交互に見るだけだった。

「免許証を拝見できますか」

僕と男は同時に財布を取り出した。そして、警官に差し出された二枚の免許証を見て、僕は絶句した。僕の免許証に印刷されている顔写真は、目の前の男のものだったのだ。住所も名前も生年月日も、すべて僕、水野拓海(みずのたくみ)のもの。しかし、そこにいるはずの僕の顔だけが、完璧に奪われていた。

「君、人の家に上がり込んで、何を言っているんだ」

警官の冷たい視線が僕に突き刺さる。僕のほうが不審者だった。アパートを追い出され、夜の闇に放り出された僕は、震える手でスマートフォンのロックを解除した。壁紙に設定していた恋人とのツーショット写真。そこに写る僕の顔も、あの男にすり替わっていた。

翌日、僕は会社に向かった。同僚の誰かが、上司の誰かが、僕のことを覚えていてくれるはずだ。しかし、僕のデスクにはあの男が座っていた。皆、彼を「水野くん」と呼び、親しげに話しかけている。僕が「違う、僕が本当の水野だ!」と叫んでも、奇異の目で見られるだけ。僕は、社会から完全に「消されて」いた。

友人、恋人、家族。誰に連絡しても、僕を知る人間は一人もいなかった。僕という人間の存在証明が、根こそぎ奪われたのだ。まるで、初めから存在しなかったかのように。

絶望の淵で、僕は最後の望みを託すことにした。三年前に大喧嘩をして以来、音信不通になっていた兄、雄一だ。ジャーナリストだった兄は、巨大な陰謀論にのめり込み、家族から孤立していた。その兄なら、あるいは。

古い住所を頼りに兄のアパートを訪ねると、やつれた顔の兄がドアを開けた。僕の顔を見るなり、兄は目を見開いた。

「拓海……! 生きていたのか!」

兄は僕を覚えていた。彼は僕を部屋に招き入れ、震える声で語り始めた。

「お前が巻き込まれたのは、『ゴースト・プロトコル』だ。特定の個人情報を社会のあらゆるデータベースから抹消し、別人に上書きする国家規模の極秘実験。俺はずっとこれを追っていた」

兄によると、僕はその被験者第一号に選ばれてしまったらしい。僕の人生は、実験のために用意された「虚ろな椅子」に過ぎなかったのだ。

「奴らは、物理的な記録だけでなく、人間の記憶にさえ介入する技術を持っている。だが、完璧じゃないはずだ。強く感情に結びついた記憶は、デジタルデータのように簡単には書き換えられない」

その言葉に、僕の脳裏に一つの場所が閃いた。恋人の美咲と初めてキスをした、丘の上の展望台。二人だけの、聖域のような場所。

兄の協力を得て、僕らは追手を振り切りながら展望台へと向かった。そこには、約束もしていないのに、美咲が一人で佇んでいた。まるで何かに引き寄せられたかのように。

「……誰?」

僕を見る美咲の瞳は、他人を見るそれだった。胸が張り裂けそうになるのを堪え、僕は語り始めた。二人しか知らない思い出を。初めてのデートで僕が盛大に転んだこと。彼女の誕生日に、僕が下手な歌を歌って泣かせてしまったこと。

話すうちに、美咲の瞳が揺らぎ始めた。記憶の霧が晴れていくかのように、彼女の頬を涙が伝った。

「……拓海、くん?」

その瞬間、僕の背後で息を飲む音がした。振り返ると、あの男が立っていた。その隣には、黒いスーツの男たちが数人。

「エラーだ」男が呟いた。「記憶の共鳴か……。想定外のバグだ」

男の顔が、まるで映像が乱れるかのようにノイズを帯び始める。彼の存在が、美咲の取り戻した記憶によって否定され、上書きされていく。黒服たちが慌てて僕らを捕らえようとするが、その動きは鈍い。周囲の世界が、僕という存在を再び認識し始めたのだ。警官のサイレンが、遠くから近づいてくる。

やがて、偽物の僕は苦悶の表情を浮かべ、砂のように崩れ落ちて消えた。兄が事前にリークしていた情報により、組織は壊滅した。

僕は日常を取り戻した。同僚も友人も、何もなかったかのように僕に接してくる。美咲の腕の温もりが、僕の帰還を証明してくれていた。

しかし、僕の世界は以前とは違って見えた。僕が座っているこの椅子は、いつまた、見知らぬ誰かに奪われるかもしれない。人々の記憶も、記録も、いとも簡単に書き換えられてしまう脆いものなのだと、僕は知ってしまった。

平穏な日々の片隅で、僕は時々、虚ろな椅子に座る誰かの幻影を見る。それは、僕が奪われるはずだった、もう一人の僕の姿なのかもしれない。

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