俺、真島祐介の耳は、少しばかり出来が良すぎた。職業はサウンドデザイナー。映画の効果音からアイドルの楽曲の微細なノイズ除去まで、音に関わることなら何でも請け負う。そのせいで、日常の些細な音ですら、俺にとっては暴力的な情報量となって降り注ぐ。
だから、隣の102号室に新しい住人が越してきた時、俺の平穏はあっけなく崩れ去った。
最初は、ありふれた生活音だった。椅子を引く音、食器のぶつかる音、テレビの音。だが、一週間も経つと、その音の質が奇妙に変化し始めた。
深夜二時、決まって聞こえてくるのは、何か重いものを引きずる音。ザ……ザ……と、まるで麻袋か何かを床に擦りつけているような、湿った摩擦音だ。その後に続く、キィン、という甲高い金属音。最初は気のせいかと思った。だが、その音は毎晩、律儀に俺の鼓膜を叩いた。
管理会社に相談しても、「他の方からは特に何も……」と気のない返事。警察は「事件性がなければ動けません」の一点張り。俺は急速に憔悴していった。目の下には隈が張り付き、仕事の精度も落ちていく。壁の向こうで、何かが起きている。その確信だけが、狂気のように俺の中で膨れ上がっていった。
「こうなったら、自分で証拠を掴むしかない」
俺は仕事で使うプロ用の集音マイクとレコーダーを部屋に持ち込んだ。壁にコンタクトマイクを貼り付け、ヘッドフォンを装着する。息を殺して、壁の向こうの闇に耳を澄ませた。
ザ……ザ……。来た。例の引きずる音だ。そして、金属音。
だが、その日は違った。微かに、本当に微かに、断続的な打鍵音が混じっていたのだ。
ト、ト、ツー。ツー、ト、ツー。
まるで心臓が直接掴まれたような衝撃が走った。これは……まさか。
俺は急いで録音データをPCに取り込み、波形を分析する。間違いない。これは、モールス信号だ。
すぐさまネットで符号表を調べ、一音一音、震える指でテキストに変換していく。
『タ ス ケ テ』
『コ コ ニ イ ル』
『オトコ ガ』
血の気が引いた。これは、誰かからの必死のSOSだ。壁一枚隔てた隣室は、監禁場所だったのだ。
俺は再び警察に電話したが、録音データだけでは令状は取れないと、またしても冷たくあしらわれた。絶望的な気分だったが、諦めるわけにはいかない。被害者を救うには、もっと決定的な証拠が必要だ。犯人が誰かと会話する声、被害者の悲鳴、何でもいい。
その夜、俺は再びマイクを壁に当てた。すると、今度ははっきりとした話し声が聞こえてきた。低い、落ち着いた男の声だ。だが、相手の声は聞こえない。まるで独り言のようだ。
「……ああ、そうだ。もう少しだ。この物語も、そろそろクライマックスだからな。読者を裏切らない、最高の結末を用意しないと……」
物語? 結末? 男は何を言っているんだ? 狂っているのか。
その時、俺の背筋を氷の指がなぞった。男の声が、ふっと変わった。
「……おや。隣のリスナー君も、随分と熱心じゃないか」
ヘッドフォンから聞こえてきた声に、俺は凍り付いた。まさか、気づかれた?
次の瞬間、コンコン、と自室のドアがノックされた。心臓が跳ね上がり、喉の奥がカラカラに乾く。ドアスコープを覗く勇気も出ない。
ノックが止む。静寂。安堵しかけたその時、郵便受けの蓋がカタン、と持ち上がり、そこから一枚の紙が滑り込んできた。
恐る恐る手に取ると、そこにはタイプライターで打ったような文字が並んでいた。
『君のせいで、プロットが少し変わってしまったじゃないか』
恐怖が頂点に達した。俺は証拠の入ったPCとレコーダーをひっつかみ、部屋から飛び出した。階段を駆け下り、マンションのエントランスへ向かう。だが、自動ドアの前に、一人の老人が立っていた。小柄で、人の良さそうな笑みを浮かべた、見覚えのない老人。
「やあ、真島さん。はじめまして、102号室の田所です」
老人は深々と頭を下げた。その穏やかな物腰に、俺は一瞬、言葉を失う。この男が、あの残忍な監禁犯だというのか?
「いやはや、申し訳ない。私の創作活動が、君をここまで追い詰めてしまったとは」
「……創作、活動?」
「ええ」と田所と名乗る老人は、こともなげに言った。「私は引退したミステリー作家でしてね。新作のリアリティを追求するために、ここで少しばかり『実験』をしていたんですよ」
彼は自分の部屋のドアを開け、俺を招き入れた。そこは、およそ監禁場所とは思えない、書斎のような部屋だった。壁一面の本棚、使い込まれたデスク。そして、その上には古いラジオとモールス信号の発信機が置かれていた。
「引きずる音は、濡らした麻袋。金属音は、このヴァイオリンの弦を擦る音。監禁されている被害者からのSOSも、会話も、全部、私の『演出』ですよ」
田所は楽しそうに笑った。「君のような最高の聴覚を持った読者が隣にいるとは、幸運でした。君の怯え、焦り、その全てが壁を通して伝わってきてね。おかげで、素晴らしいプロットが浮かびましたよ」
俺は、その場で崩れ落ちそうになった。俺が感じていた恐怖も、正義感も、全てこの老人の掌の上で踊らされていたに過ぎなかったのだ。
田所は満足げに頷き、俺の肩を叩いた。
「さて、真島さん。この物語の結末、君ならどうしますか?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。数週間にわたる不眠と恐怖、そして極限の緊張状態から解放された俺の頭は、奇妙なほどクリアになっていた。
俺はゆっくりと立ち上がり、田所に向かって、生まれて初めて浮かべるような笑みを返した。
「面白いですね、先生。……では、僕が最高のエンディングを用意してあげますよ」
俺は田所の背後で、静かに自室のドアを閉めた。そして、カチャリ、と内側から鍵をかける音が、静まり返った廊下に響き渡った。
今度は、田所先生が恐怖に目を見開く番だった。
俺の耳が良すぎるのは、生まれつきじゃない。後天的なものだ。
――獲物の立てる、どんな些細な音も、聞き逃さないために。
隣室のソナチネ
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