不在証明の侵入者

不在証明の侵入者

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始まりは、一輪の赤いカーネーションだった。

俺、神崎亮太は、その日もいつも通り午前七時に目を覚ました。遮光カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の埃をきらきらと照らしている。ミニマルな内装で統一されたリビングの、ガラス製のコーヒーテーブル。その中央に、それはあった。
小さな花瓶に活けられた、鮮やかな赤いカーネーション。
見覚えがない。全く、ない。

俺は几帳面な性格で、自分のテリトリーに想定外のものが存在することを何より嫌う。昨夜、眠る前には確かに何もなかったはずだ。第一、俺は花を飾るような趣味はない。
オートロックのマンションだ。昨夜も玄関の鍵とチェーンはしっかり掛けた。窓も施錠されている。誰かが侵入した形跡はどこにもない。気のせいか? いや、現に花瓶はそこにある。俺は混乱しながらも、それをただの悪戯だと思うことにして、花をゴミ袋に突っ込んだ。

しかし、それは始まりに過ぎなかった。
翌日、冷蔵庫の中に、自分が買った覚えのない高級なカマンベールチーズが入っていた。
その次の日、本棚の文庫本の順番が、ほんの僅かに入れ替わっていた。自分が読んでいたページの栞が、全く別のページに挟まっている。
歯ブラシ立てには、俺の物とは違う、少し硬めの毛先の歯ブラシが、当たり前のように並んでいた。

恐怖がじわじわと内側からこみ上げてくる。これは悪戯などではない。もっと悪質で、計画的な何かだ。“誰か”が、俺の不在時にこの部屋に侵入し、その痕跡をわざと残していく。まるで、俺の生活を隅々まで観察し、嘲笑うかのように。

警察に相談しても、「実害がないでしょう」と、まともに取り合ってはくれなかった。俺は自衛のために、玄関の鍵を最新の電子ロックに替え、窓には補助錠を取り付けた。それなのに、“誰か”はやすやすと俺の聖域を侵し続けた。

精神は確実に蝕まれていった。夜は些細な物音にも飛び起き、昼は周囲の人間すべてが侵入者に見えた。会社の同僚の何気ない一言も、隣人の挨拶も、すべてが俺を探るための罠に思える。
ついに俺は、部屋に小型の監視カメラを仕掛けた。これで正体を暴いてやる。侵入者を捉えた映像を警察に突きつければ、今度こそ動いてくれるはずだ。

翌朝、震える手でスマートフォンのアプリから映像を確認した俺は、絶望した。
映像は、俺が眠りについてから一時間後、午前二時十三分からきっかり五分間、ノイズ混じりの真っ黒な画面になっていたのだ。そして、映像が復旧した時には、机の上には新しい痕跡――俺が子供の頃に好きだった、今はもう廃版になっているチョコレートが一つ、置かれていた。
犯人は、俺がカメラを仕掛けたことさえ知っている。そして、それを無効化する技術を持っている。
もはや、俺に逃げ場はなかった。この部屋は、俺だけの密室のはずが、見えない侵入者と共有する檻になってしまった。

その夜、俺は決行することにした。眠ったふりをして、侵入者をこの手で捕まえる。手には、護身用に買った金属バットを握りしめていた。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。心臓が喉から飛び出しそうだ。
午前二時過ぎ。リビングの方で、床がきしむ、微かな音がした。
来た。
俺は息を殺し、ベッドから滑り降りる。足音を立てないよう、抜き足差し足でリビングへ向かう。暗闇に目が慣れると、そこに黒い人影が浮かび上がった。冷蔵庫の扉を、ゆっくりと開けようとしている。
「誰だッ!」
俺は叫び、バットを振り上げた。恐怖と怒りで、全身の血が沸騰するようだった。
その瞬間、人影が素早く振り返り、壁のスイッチを押した。
パッと、リビングの照明がつく。
眩しさに目を細め、そして俺は――凍りついた。

そこに立っていたのは、俺だった。

服装も、髪型も、背格好も、そして何より、恐怖に引きつったその顔も、鏡に映したように俺自身なのだ。
「……誰だ、お前は」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
目の前の“俺”は、怯えたような、それでいてどこか安堵したような複雑な表情で、こう言った。
その声も、俺の声だった。
「やっと会えた。ずっと、君に会いたかったんだ」
「……何、を……」
「僕だよ。君が眠っている間、ここにいる“僕”だ」

頭の中で、何かが砕ける音がした。カーネーション。チーズ。歯ブラシ。チョコレート。監視カメラの空白の五分間。
すべてが、一本の線で繋がる。侵入者は、外から来たのではなかった。最初から、この部屋に――いや、この身体の中に、いたのだ。

「君はいつもきっちりしているから、少しだけ僕の好きなものを置かせてもらった。気づいてほしくて」
“俺”は、困ったように笑った。
不在証明。そうだ、俺が眠っている間、俺には完璧なアリバイがある。だから、犯人が俺自身である可能性など、考えもしなかった。
俺は、俺の知らない“俺”と、この部屋で二人きりだったのだ。
金属バットが、手から滑り落ちた。カラン、と乾いた音が、静まり返った部屋に響き渡る。目の前の男は、紛れもなく俺自身。そして、俺にとって最も理解不能で、最も恐ろしい侵入者だった。
俺たちの奇妙な共同生活は、今、本当の意味で始まったのだ。

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