忘却のレクイエム

忘却のレクイエム

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***第一章 忘れられた詩集***

神保町の古書街から少し外れた路地裏に、桐島蒼の営む「霧と本」はひっそりと佇んでいた。煤けた木の扉を開けると、古い紙とインクの匂いが客を迎える。その香りは、蒼にとって唯一、心を穏やかにしてくれる防腐剤のようなものだった。彼はカウンターの奥で、まるで自身もまた古書の一冊であるかのように、静かに世界の喧騒から身を隠していた。

その日も、午後の柔らかな光が埃をきらめかせながら床に落ちる、ありふれた一日になるはずだった。扉の鈴が、ちりん、と乾いた音を立てる。入ってきたのは、背筋をしゃんと伸ばした、品の良い老婦人だった。薄紫色の和装に、丁寧に結い上げられた銀髪がよく似合っている。

「ごめんください」

凛とした声だった。蒼は無言で会釈する。老婦人は店内を見回すでもなく、まっすぐにカウンターへ進み出ると、風呂敷包みから一冊の小さな本を取り出した。それは、装丁が擦り切れ、角が丸くなった古い詩集だった。

「これを……」老婦人は詩集をそっとカウンターに置いた。「本来の持ち主に、お返ししていただけませんでしょうか」

蒼は眉をひそめた。「本来の持ち主、ですか。当店は人探しを請け負ってはおりませんが」

事務的な声で返すと、老婦人は悲しげに微笑んだ。「ええ、存じております。ですが、あなた様なら、この本の声を聴いてくださるような気がいたしましたのです」

有無を言わさぬ、不思議な説得力があった。蒼が黙っていると、老婦人は詩集のページをそっと開いた。そこには、一枚のセピア色の写真が挟まっていた。陽光の中で眩しそうに目を細める、美しい女性。その幸せそうな微笑みは、なぜか見る者の胸を締め付けた。

さらに老婦人は、あるページを指差す。そこには、流麗な万年筆の文字で、こう書きつけられていた。

『忘却は、最も優しい罪』

「……どういう意味です?」蒼は思わず尋ねていた。
「それを知るのが、あなたの役割なのかもしれません」

老婦人はそれだけ言うと、深く一礼し、名前も連絡先も告げずに店を出て行った。ちりん、と再び鳴った鈴の音が、やけに大きく響く。後に残されたのは、謎の言葉が記された詩集と、写真の中の女性の寂しげな眼差しだけだった。蒼は、自分の平穏な日常に、小さな、しかし無視できないさざ波が立ったのを感じていた。

***第二章 セピア色の追憶***

関わるべきではない。そう頭では分かっていながら、蒼の指はいつの間にか詩集のページをめくっていた。発行は昭和三十年代。地方の小さな出版社から出された、今では誰も知らない詩人の作品集だった。手がかりはあまりに少ない。だが、『忘却は、最も優しい罪』という言葉と、写真の女性の表情が、蒼の心の奥底に眠る何かを執拗に揺さぶった。

蒼は、かつて両親を交通事故で亡くしていた。運転手の前方不注意による、ありふれた事故。だが、蒼にとってそれは、世界の色をすべて奪い去った絶対的な悲劇だった。以来、彼は他者との深い関わりを避け、過去という名の殻に閉じこもってきた。加害者への憎しみだけが、彼の感情をかろうじて繋ぎとめる錨だった。

数日後、蒼は意を決して、地域の古い資料を保管する郷土資料館へ足を運んだ。詩集の発行年と、写真の女性の服装からおおよその年代を絞り、当時の新聞の縮刷版を一枚一枚めくっていく。気の遠くなるような作業だった。だが、彼の心を動かしたのは、義務感ではなく、セピア色の写真の奥に見える、名も知らぬ女性への奇妙な共感だった。

そして、ついに見つけた。地域の文化欄の片隅に、その女性はいた。「若き天才ピアニスト、月村栞来る。リサイタル開催」。記事に添えられた写真は、まさしく詩集に挟まっていた彼女だった。

月村栞。その名前を頼りに調査を進めると、すぐに痛ましい事実に行き当たった。彼女は、将来を嘱望された才能の持ち主だったが、二十歳を過ぎた頃、婚約者をひき逃げ事故で亡くすという悲劇に見舞われていた。そのショックからか、彼女はピアノをやめ、リサイタルの数ヶ月後、忽然と街から姿を消したのだという。犯人は今も見つかっていない、と記事は締め括られていた。

婚約者の死。ひき逃げ。蒼の心臓が冷たく軋んだ。栞の悲劇は、彼の過去と不気味なほどに重なって見えた。彼女もまた、理不尽な事故によって、大切な未来を奪われたのだ。今までただの面倒事だった詩集の謎が、いつしか蒼自身の失われた過去と繋がり、彼の心を深く揺さぶり始めていた。彼は栞の失踪の裏に隠された真実を、まるで自分のことのように知りたいと渇望するようになっていた。

***第三章 優しき罪の告白***

月村栞の足取りを追う中で、蒼は彼女のかつてのピアノ教師が、今も市内の介護施設で暮らしていることを突き止めた。蒼が施設を訪れると、車椅子に座った一人の老婆が、窓の外を静かに眺めていた。その横顔を見て、蒼は息を呑んだ。あの日、古書店を訪れた老婦人だった。

「……お待ちしておりました」

老婦人、水木は静かに言った。まるで蒼がここへ辿り着くことを、初めから知っていたかのように。

「なぜ、私に?」蒼は問い詰めるように尋ねた。「なぜ、あんな回りくどいことを」

「栞が、そう望みましたから」水木の瞳が、遠い過去を見つめる。「あの子は、誰かに真実を知ってほしかった。でも、自分の口からは、とても言えなかったのです」

水木はゆっくりと語り始めた。その告白は、蒼が築き上げてきた同情と共感を、根底から覆すものだった。

あの日、栞の婚約者を轢いたひき逃げ犯は、どこの誰かもわからない悪人ではなかった。犯人は、月村栞、本人だったのだ。

雨が降りしきる夜だった。些細なことから口論になった二人は、感情的になっていた。婚約者の心ない一言に傷ついた栞は、衝動的に車に乗り込み、彼の元から走り去ろうとした。だが、涙で滲む視界と、パニックに陥った心では、正常な運転などできはしなかった。急発進した車は、追いかけてきた彼を……。

「栞は、その場から逃げ出してしまいました」水木の声が震える。「恐怖と、信じがたい現実に、心が壊れてしまったのです。彼女は、自分が愛する人をその手で殺めてしまったという事実を受け止めきれなかった」

自責の念に苛まれた栞は、ピアノを弾けなくなり、夢も未来も全てを捨てた。そして、罪の意識から逃れるため、その夜の記憶に、自ら固く蓋をした。

『忘却は、最も優しい罪』

それは、加害者となってしまった彼女自身の、悲痛な魂の叫びだったのだ。

詩集は、婚約者から贈られた、彼女にとって何よりも大切な宝物だった。街を去った栞は、病を患い、長くは生きられなかったという。死を目前にした彼女は、水木にその詩集を託した。「もし私が死んだら、この本を、心がわかる人に渡して、本当のことを伝えてほしい。そして、あの方のお墓に……」

詩集の「本来の持ち主」とは、栞がその手で命を奪ってしまった、婚約者のことだったのである。

蒼は、言葉を失った。全身の血が逆流するような衝撃。被害者だと思っていた女性が、実は加害者だった。憎むべき存在だったはずの加害者の、あまりに深く、救いのない苦しみを知ってしまった。単純な善と悪で割り切ってきた彼の世界が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。これまで彼を支えてきた「加害者への憎しみ」という名の錨が、その重さを失い、静かに心の海底へと沈んでいくのを感じた。

***第四章 夜明けのレクイエム***

水木から聞いた海辺の町の小さな墓地を、蒼は訪れていた。潮風が頬を撫で、遠くでカモメの鳴き声がする。栞の質素な墓石の隣に、婚約者であった青年の墓が、寄り添うように並んでいた。

蒼は、持参した詩集を、そっと青年の墓石の前に供えた。セピア色の写真の彼女が、ようやく安らぎの場所に辿り着けたように見えた。

彼は、目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、自分の両親を死なせた、名も知らぬ加害者の顔だ。憎しみしか抱けなかった相手。だが、今、蒼の心には別の感情が芽生えていた。あの加害者にも、もしかしたら栞のような、逃れられない後悔と、誰にも言えない苦しみがあったのかもしれない。事故の後、その人生は、一体どのようなものだったのだろうか。

憎しみを手放すことが、赦しに繋がるわけではない。それは違う。だが、他者の痛みや罪の重さを想像することは、過去という呪縛から自分自身を解放するための、最初の、そして最も重要な一歩なのかもしれない。蒼は、長い間自分を縛り付けていた怒りの鎖が、少しだけ緩んだような気がした。

神保町の路地裏に帰ってきた時、店には朝の光が静かに差し込んでいた。それはまるで、新しい世界の始まりを告げる光のようだった。蒼は、店の隅で埃をかぶっていた一枚の写真立てに手を伸ばす。幼い自分が、満面の笑みを浮かべる両親に挟まれている、ありふれた家族写真。今までは、見るたびに胸が締め付けられるだけだった。しかし、今は違う。写真の中の両親の笑顔が、ただ温かく、彼の心を照らした。悲しみは消えない。だが、悲しみだけが全てではなかった。

店の扉が、ちりん、と音を立てた。入ってきたのは、蒼と同じくらいの歳の、一人の若い女性客だった。

「あの……何か、心に残るような一冊を探しているんです」

以前の彼なら、曖昧に会釈するだけだっただろう。だが、蒼は顔を上げ、ほんの少しだけ口角を上げて、穏やかに答えた。

「ええ。きっと、見つかりますよ」

その声には、夜明けの光のような、微かで、しかし確かな希望の響きが宿っていた。古書のインクの香りに混じって、新しい物語が始まる予感が、店の中を満たしていた。

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