俺の職業は、サウンドデザイナー。映画やゲームに、現実よりも生々しい効果音を吹き込むのが仕事だ。職業柄、俺、高瀬航(たかせわたる)の耳は、人よりもほんの少しだけ精密にできている。だから、気づいてしまったのだ。隣の部屋、303号室から漏れ聞こえる、奇妙なノイズに。
俺がこの古びたマンションに越してきたのは三ヶ月前。防音性だけが取り柄という謳い文句に惹かれたのだが、隣人は一度も顔を見たことがない、謎の存在だった。そして一ヶ月ほど前から、そのノイズは始まった。
毎晩、午前二時きっかり。壁の向こうから、微かな音が聞こえるのだ。
カチリ、カチリ、という時計の秒針よりも硬質な音。金属製の円盤が回転するような、低い摩擦音。そして、それらに混じって聞こえる、くぐもった呻き声。それは苦痛の叫びというより、何か重いものを必死に押し殺しているような、抑制された声だった。
警察に相談するには、あまりに曖昧で小さな音。だが、俺の耳には、その異常さがこびりついて離れなかった。好奇心と職業病が頭をもたげ、俺は高性能マイクを壁に設置し、その音の録音を始めた。
波形を分析して驚いた。機械音だと思っていたものは、不規則なようでいて、七日間を一つの周期とする複雑なパターンを描いていた。そして呻き声は、音のピークと完全に同調している。まるで、何かの合図に喘いでいるかのようだ。
303号室の住人は、一体中で何をしているのか。妄想が膨らみ、仕事も手につかなくなり始めた頃、そのノイズは、ぷっつりと途絶えた。
一日、二日、そして一週間。午前二時は完全な静寂に支配された。あれほど忌まわしかったノイズが消えたというのに、俺の胸は安堵ではなく、得体の知れない不安で満たされた。何かが、終わったのか。それとも、最悪の事態が起きたのか。
意を決して、俺は303号室のドアをノックした。返事はない。ドアノブを捻ると、鍵がかかっている。管理人に尋ねても、「ああ、303の斎藤さんですか? 長期出張だと聞いてますよ」と気のない返事が返ってきただけだった。
だが、俺は確信していた。これはただの長期出張ではない。
その夜、俺はベランダの隔て板を乗り越え、隣の部屋を覗き込んだ。月明かりに照らされた室内は、ガランとしていた。テーブルも、ベッドも、テレビもない。生活の痕跡が一切ないその部屋の中央に、それは鎮座していた。
高さ一メートル、幅二メートルほどの、鈍色に光る巨大な金属の箱。
金庫、だろうか。いや、それにしては異様に大きい。表面には継ぎ目一つなく、分厚い扉には、いくつものダイヤルが複雑に絡み合った、巨大な錠前が取り付けられていた。
あのノイズは、この箱から発せられていたのだ。
俺はいてもたってもいられなくなり、自室からピッキングツールを持ち出した。昔、趣味でかじった程度の技術だ。だが幸いにも、このマンションの玄関の鍵は古く、単純な構造をしていた。数分の格闘の末、カチリ、と小さな解放音が響く。俺は息を殺して、303号室に滑り込んだ。
部屋は、埃っぽく、ひやりと冷たい。まっすぐに例の箱へと向かう。近づいてみると、その威圧感は凄まじかった。ダイヤル錠の横に、小さなスピーカーグリルがあることに気づく。俺が箱の表面にそっと触れた、その瞬間だった。
「…誰だ?」
スピーカーから、しわがれた声が響いた。俺は心臓が飛び出るかと思うほど驚き、飛びずさった。声は続く。あの、毎晩聞いていた呻き声と同じ声色だった。
「外に、いるのか? 答えろ」
「…あ、あんたは…斎藤さんか? 箱の中にいるのか?」
「そうだ。頼む、助けてくれ。君は…もしかして、隣の部屋の…?」
男の声には、憔悴と、わずかな安堵が滲んでいた。
「毎晩、音が聞こえていました。午前二時の、あの音は…」
「あれは、このシェルターの開錠シークエンスだ。俺は、ある組織に命を狙われていてね。自作のこの箱に避難していた。外部の協力者が毎日、音で生成されるパスワードを入力して、俺の生存を確認し、食料を補給する手筈だった。だが…一週間前、協力者が奴らに捕まった。俺は、この中から出られなくなった」
息を呑む。目の前の箱は、金庫などではなく、究極のパニックルームだったのだ。
「開けてくれ…! 頼む! パスワードがなければ、内部からは絶対に開けられないんだ!」
「パスワードなんて、俺は知らない!」
「いや、君は知っているはずだ!」男は叫んだ。「君が毎晩聞いていた『ノイズ』そのものが、パスワードなんだ! カチリ、という音は数字。摩擦音は、回す方向とダイヤルの番号。そして俺の呻き声は…入力のタイミングを知らせる合図だ!」
俺は、自分の耳を疑った。あの不気味なノイズが、まさか複雑なパスワードだったとは。
だが、言われてみれば、俺の脳裏には、七日周期のあの音のパターンが、楽譜のように焼き付いている。サウンドデザイナーとしての執念で録音し、分析し続けた日々が、今、思わぬ形で繋がろうとしていた。
「…やってみる」
俺はダイヤルに手をかけた。記憶の中の音を再生する。
最初の音は、硬質なクリック音、四回。つまり「4」。
次の低い摩擦音は、右回転で、二番目のダイヤル。
呻き声のタイミングで、止める。
一つ、また一つと、脳内の音源ライブラリから正確な音を引き出し、ダイヤルに変換していく。集中力は極限まで高まり、指先がかすかに震えた。まるで、世界で最も緊張感のあるミックス作業のようだった。
そして、最後の一音を入力し終えた瞬間。
ゴウ、と低いモーター音が唸り、分厚い鋼鉄の扉が、ゆっくりと横にスライドしていく。
暗闇の中から現れたのは、痩せこけ、髭を伸ばした若い男だった。彼は眩しそうに目を細め、よろめきながらも俺の前に立つと、深く、深く頭を下げた。
「ありがとう…。君の耳が、俺の命を救った」
男はポケットから小さなUSBメモリを取り出し、俺の手に握らせた。
「これを警察に。組織の悪事を証明する、全てのデータが入っている。俺はもう消える。二度と会うことはないだろう」
そう言い残し、男は幽霊のように静かに部屋を出て、闇夜に消えていった。
静まり返った部屋に、俺は一人立ち尽くす。手の中には、ずしりと重いUSBメモリ。壁一枚隔てた隣人が残した、あまりに危険な真実。
窓の外で、パトカーのサイレンが遠く聞こえ始めた。俺の平穏な日常は、もう二度と戻ってこないだろう。だが不思議と、後悔はなかった。むしろ、これから始まるであろう新しい物語の序章に、胸が静かに高鳴るのを感じていた。
ノイズ・ルーム303
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