ラスト・リペア

ラスト・リペア

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古い油と金属の匂いが染みついた「相田修理店」の引き戸が、遠慮がちに開いた。店主の相田源三は、分解されたゼンマイ式腕時計の歯車から顔を上げ、眉間に深い皺を刻む。そこに立っていたのは、場違いなほどに小綺麗なジャケットを着た青年と、彼が抱える銀色の人形だった。

「ごめんください。こちらで修理を……」
「うちは古い機械専門だ。おもちゃ屋なら角を曲がった先にある」

源三は一瞥しただけで、青年の抱えるそれが最新技術の塊であることを見抜いていた。ヒューマノイド、というやつだろう。滑らかな流線形のボディは、源三が愛する、無骨で実直な機械たちへの冒涜のように見えた。

「おもちゃじゃありません。自律思考型AI搭載ヒューマノイド『ノア』です。そして、あなたにしか直せない」
青年――高坂樹と名乗った――は、真っ直ぐな目で源三を見つめた。聞けば、彼はノアの開発者であり、原因不明の不具合に悩まされているという。最新鋭の診断装置でも検知できない、マイクロ秒単位の動作遅延と、時折見せる体の微細な震え。

「最新の機械は、最新の技術で直せ。わしには関係ない」
源三が冷たく突き放すと、高坂は意外な言葉を口にした。
「俺の祖父が、あなたのファンでした。かつて『神の手』と呼ばれた精密機械職人、相田源三の」

その言葉に、源三の手がぴたりと止まる。脳裏に、油と汗にまみれて笑っていた仲間たちの顔が蘇り、すぐに色を失って消えた。十年前に、全てを捨てたはずの名前だった。

「……置いていけ。直せるかどうかは、わしが決める」

渋々引き受けたものの、源三の心は晴れなかった。作業台に乗せられたノアは、まるで眠っている人間のようだった。その胸部パネルを開けると、そこには源三の知識を嘲笑うかのような、複雑怪奇な電子回路と光ファイバーの束が広がっていた。

「けっ、こんなハリボテに魂があるもんか」

悪態をつきながらも、源三の職人としての血が騒ぎ始める。彼はルーペを目に当て、指先に神経を集中させた。何日も経った。高坂は毎日様子を見に来ては、源三の神業のような手つきを食い入るように見つめていた。

奇妙なことが起こり始めたのは、その頃からだ。
深夜、一人で作業に没頭していると、不意にノアが、源三の亡き妻・千代が好きだった古い流行歌をハミングした。またある時は、工具を探す源三の背後で、千代がよくやっていた、頬に手を当てる仕草をしてみせた。

「……気のせいか」
源三は動揺を打ち消すように首を振る。だが、心のかき乱れは、まるで湖面に投げ込まれた小石の波紋のように広がっていった。

そして、ついに源三は不具合の核心を見つけ出す。中央制御ユニットに繋がる、髪の毛よりも細い伝送ケーブル。その一本に、ナノメートル単位の僅かな「歪み」が生じていた。製造時の誤差ではない。まるで強い精神的負荷がかかったかのように、物理的に歪んでいる。

「高坂、正直に話せ。このAIに何をした?」
源三の低い声に、高坂は観念したように顔を伏せた。
「ノアの深層学習の基礎データに……個人的なものを、少しだけ」
高坂の祖母は、千代の古い友人だった。彼は祖母が遺した日記やホームビデオ、そしてアルバムにあった若き日の源三と千代の写真を、AIの「人間らしさ」を育むためのデータとして、秘密裏に組み込んでいたのだ。ノアが見せた仕草や歌は、千代の記憶の断片だった。

「馬鹿者!人の心を、記憶を、おもちゃにするな!」
源三の怒声が、店中に響き渡った。それは、高坂に向けられたものであると同時に、自分自身に突きつけられた刃でもあった。

十年前、源三には才能ある弟子がいた。彼は源三の技術を超えようと焦るあまり、無断で機械を改造し、事故で命を落とした。自分の驕りが弟子を殺したのだと、源三は自らを責め、それ以来、誰にも技術を教えず、情熱という名の蓋を固く閉ざしてきたのだ。

AIに宿った妻の断片。過去の過ち。歪んだケーブルは、まるで源三自身の心のようだと思った。

「……わしが、直す」

源三は店の奥から、桐の箱を大事そうに運び出してきた。中には、彼が己の指先の延長として作り上げた、門外不出の工具一式が鈍い光を放っていた。引退の日に、もう二度と使うことはないと誓って封印したものだ。

息を殺して見守る高坂の前で、源三は別人のように変貌した。全ての雑念が消え、その全神経が指先に集約されていく。ルーペの向こうで、歪んだケーブルが巨大な渓谷のように見えた。源三の指先が、まるで壊れ物に触れるかのように優しく、それでいて寸分の狂いもなくケーブルに触れる。歪みを修正するその動きは、修理というよりは、傷ついた心を慰めるような、慈しみに満ちた対話のようだった。

「千代……すまなかったな。わしは、まだ……まだ、やれるぞ」

掠れた呟きが漏れた。最後の調整を終え、源三が工具を置いた、その瞬間。
ノアの光学センサーから、ぽたり、と一筋の冷却水が流れ落ちた。
そして、合成音声ではない、温かみのある声が響いた。

「ありがとう、あなた」

それは紛れもなく、源三の記憶の中にだけ生きているはずの、千代の声だった。

完全に復旧したノアは、ただ静かに佇んでいた。高坂は、ただ呆然と源三の顔を見つめていたが、やがて深々と頭を下げた。
「相田さん……俺を、弟子にしてください!AIにだって、あなたの技術と……魂が必要なんです!」

源三は、十年ぶりに心の底から笑った。かつて弟子に向けた、厳しくも優しい顔で。
「フン、半人前が。教えることは、それこそ山ほどあるぞ」

古い油と金属の匂いがする修理店に、世代の違う二人の職人の声と、新しい機械の駆動音が重なって響く。
源三の止まっていた時間が、再び、確かな鼓動を刻み始めた。

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