活字のソムリエ

活字のソムリエ

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インクと機械油の匂いが混じり合う工房で、永田仁はルーペを片手に活字を拾っていた。カシャン、カシャン。金属の活字がピンセットで拾われ、ステッキに並べられていく小気味よい音だけが、埃っぽい空気を震わせる。ここは東京の下町に佇む「永田活版」。祖父の代から続く小さな印刷所だ。

デジタル化の波に飲まれ、活版印刷の仕事は風前の灯火だった。今日も、仁が組んでいるのはたった数十枚の名刺だけ。それでも、彼は手を抜かない。依頼主である若き弁護士の、実直だが内に情熱を秘めた瞳を思い出しながら、インクの調合台に向かった。黒に、ほんの一滴の深い藍を混ぜる。粘度をわずかに高める。彼の仕事は、単に文字を刷ることではない。言葉に、その持ち主だけの魂を込めることだった。

そんなある日の午後、工房の引き戸がガラリと音を立てて開いた。現れたのは、場違いなほど洗練されたスーツを着こなした若い女性だった。

「こちらが、永田活版さんでよろしいでしょうか」

大手出版社「文詠社」の編集者、小松莉奈と名乗った彼女は、一冊の古い詩集を大切そうに抱えていた。「先日、神保町の古書店でこの本を見つけました。印刷所がこちらで…この活字の力強さ、インクの深みに、心を奪われたんです」

詩集の奥付には、確かに「永田活版」の文字があった。先代である祖父の仕事だ。

小松は熱っぽく語った。「実は、お願いしたいお仕事があります。文壇の巨匠、大江響介先生の、最後の作品集です」

大江響介。その名に、仁は息を呑んだ。日本文学の頂点に君臨し、数年前に引退を宣言した伝説の作家。そんな大仕事が、なぜこんな寂れた印刷所に?

「先生が、ご自身の最後の本は活版で、と強く希望されたのです。いくつか候補の印刷所を回りましたが、誰もこの“言葉の重み”を理解してくれない。でも、この詩集の文字は生きています。永田さん、あなたにお願いしたいんです」

あまりに大きな話に、仁は一度は断ろうとした。だが、小松が置いていった原稿の束に目を通した瞬間、心が揺らいだ。そこには、老作家が人生のすべてを懸けて紡いだであろう、静謐で、しかし圧倒的な熱量を秘めた言葉たちが並んでいた。これを自分の手で形にしたい。職人としての血が騒いだ。

印刷作業は困難を極めた。大江の原稿は、一見すると完璧な文章だったが、読み進めるうちに奇妙な違和感が募っていく。美しい比喩のあとに、なぜか脈絡のない地名が出てくる。流麗な文章の行間に、不自然なほど素朴な単語がぽつりと置かれている。

「先生の推敲漏れでしょうか…」小松は不安げに呟いた。

「いや、違う」仁は首を振った。「これは、意図的だ。この言葉たちは、何か別のことを伝えたがっている気がする」

その夜、仁は工房の奥にある、開かずの桐箪笥を開けた。中には、祖父が遺したインクの調合録が眠っている。ページをめくると、墨で書かれた達筆な文字が目に飛び込んできた。

『月長石の粉末、露草の夜露、そして焚き火の煤。これらを満月の夜に練り合わせるべし。陽光の下ではただの黒。されど、特定の光にかざす時、秘められし記憶を浮かび上がらせる“幻月(げんげつ)インク”となる』

まさか。おとぎ話のような記述に、仁は半信半疑だった。だが、大江の原稿に隠された謎を解く鍵は、これしかないように思えた。彼は数日かけて材料を集め、祖父の記録だけを頼りに、幻のインクの再現に没頭した。

締め切り前夜。徹夜で完成させたインクを使い、仁は問題の箇所を刷り上げた。刷り上がった紙は、一見するとただの黒い文字が並んでいるだけだ。小松も、落胆の色を隠せない。

「…ダメ、でしたか」

「まだだ」

仁は工房の窓の遮光板を下ろし、あたりを真っ暗にした。そして、ポケットから取り出した小さなペンライトのスイッチを入れる。その光を、斜めからそっと紙に当てた、その瞬間。

「……あっ!」

小松が息を呑んだ。黒いインクで印刷された文字の隙間に、淡い青白い光を放つ、別の言葉が幽霊のように浮かび上がっていたのだ。

不自然な地名は、若い頃のデートの場所だった。素朴な単語をつなぎ合わせると、一つの名前になった。『小夜子』。それは、大江が作家として名を上げる前、文壇の圧力によって引き裂かれた恋人の名前だった。

作品全体に散りばめられた暗号は、公にできなかった、たった一人の女性へ宛てた、生涯最後のラブレターだったのである。

「先生は…この想いを、誰にも知られず、でも確かにこの世に残したかったんだ…」

小松の目から、涙がこぼれ落ちた。活字に込められた、数十年の時を超えた愛の深さに、二人は言葉を失った。

この隠された手紙をどうすべきか。悩んだ末に、彼らは一つの決断を下した。初版のうち、ごく少数の特装版にだけ、この「幻月インク」を使うことにしたのだ。気づく者にだけ届く、静かな奇跡として。

大江響介の遺作は、記録的なベストセラーとなった。そして、その奥付に記された「永田活版」の名は、本を愛する人々の間で静かに語り継がれるようになった。

ある晴れた日。工房でインクを練る仁の元に、新たな来客を告げる引き戸の音が響いた。彼は顔を上げ、穏やかに微笑む。活字は、ただ情報を伝えるだけではない。時を超え、人の心を繋ぐことができる。仁は、自らの仕事の本当の意味を、今、確かに掴んでいた。

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