***第一章 雨音と植物図鑑***
神保町の古書店街の片隅に、俺の営む「時雨堂」はある。降りしきる雨の日は、決まって客足が遠のく。湿った古紙の匂いが店内に満ち、窓ガラスを叩く雨音だけが、世界のすべてであるかのように響いていた。俺、水上健太は、カウンターの奥で文庫本に目を落としながら、その静寂に沈み込んでいた。父が急逝して三年。写真家になる夢を諦め、義務感だけで継いだこの店は、俺にとって埃をかぶった過去の象徴であり、抜け出すことのできない檻でもあった。
ドアベルが、ちりん、と寂しげな音を立てた。珍しい客だった。傘から滴る雫を丁寧に払いながら入ってきたのは、背中の丸まった小柄な老婆だった。顔には深く皺が刻まれ、その瞳は、まるで遠い過去の景色を見つめているかのように澄んでいた。
「いらっしゃいませ」
俺の無愛愛想な声にも臆することなく、老婆はゆっくりと店内を見回し、やがてカウンターへと歩み寄ってきた。そして、風呂敷包みから取り出した一冊の本を、そっとカウンターの上に置いた。
それは、見覚えのない古い植物図鑑だった。革の表紙は擦り切れ、ページは黄ばんで波打っている。だが、不思議なほど丁寧に扱われてきたことが分かる一冊だった。
「これを…」老婆は、かすれた声で言った。「買い取ってほしいのではありません。元の持ち主に、返してほしいのです」
「元の持ち主、ですか?」俺は眉をひそめた。「うちで買われた本なら、記録があるかもしれませんが…」
「いいえ、ここで買ったものではありません」老婆は静かに首を振った。「持ち主は、この店の先代…あなたのお父様、水上誠さんです」
父の名前を聞いて、心臓が小さく跳ねた。父の遺品はすべて整理したはずだ。こんな本は見たこともない。俺が戸惑っていると、老婆は図鑑のページをそっと開いた。そこには、押し花にされた可憐な白い花と共に、一枚の小さなメモが挟まっていた。インクが滲んだ古風な文字で、こう書かれていた。
『小夜子へ。約束の花を見つけたよ』
小夜子。知らない名前だった。厳格で、仕事一筋で、俺の夢を一蹴した父。その父の世界に、こんな柔らかな響きを持つ名前が存在したことが、にわかには信じられなかった。雨音の向こうから、俺の知らない父の人生が、静かに顔を覗かせたような気がした。
***第二章 色褪せた写真の向こう***
老婆はそれ以上何も語らず、「あとは、この本が導いてくれます」とだけ言い残して、雨の中に消えていった。残されたのは、謎の植物図鑑と、俺の心に生まれた大きな波紋だけだった。
その日から、俺の日常は少しずつ色合いを変え始めた。店の仕事の合間に、あの図鑑を手に取るようになった。それは市販されているものではなく、どうやら手描きのスケッチと文章で構成された、世界に一冊だけの本らしかった。緻密でありながら温かみのあるタッチで描かれた植物の横には、その植物にまつわる短い詩のような文章が添えられている。父の無骨な字とは似ても似つかない、流麗な筆跡だった。
父の書斎は、生前のままにしてある。もう一度、何か手がかりがないかと、埃っぽい空気に満ちた部屋を漁ってみた。日記や手紙の類は、やはり見つからない。父は、自分の内面を他者に見せるような人間ではなかった。諦めかけたその時、本棚の奥に仕舞われていた古いアルバムを見つけた。
ページをめくると、色褪せたモノクロームの世界が広がっていた。若い頃の父がいた。俺の知らない、柔らかな表情をした父が。そして、いくつかの写真には、見知らぬ女性が一緒に写っていた。白いワンピースを着て、儚げに微笑む女性。その背景には、図鑑に描かれていたのと同じ、海辺の風景や、名も知らぬ野花が咲き乱れる丘が広がっていた。確信があった。この人が、「小夜子」だ。
写真の中の父は、俺が憎んですらいた厳格な父親ではなかった。愛しい人に向ける、慈しみに満ちた眼差しをしていた。俺が向けてもらったことのない眼差しだった。胸の奥がちくりと痛んだ。それは嫉妬だろうか。それとも、父の知られざる過去に対する、純粋な好奇心だろうか。
アルバムの最後のページに、一枚だけ挟まっていた風景写真。それは、小さな岬の先端に立つ、一本の木を写したものだった。その写真の裏に、父の字で小さく地名が記されていた。
「千葉、御宿」
老婆の言葉が脳裏をよぎる。『この本が導いてくれます』。俺は、ほとんど衝動的に、店を臨時休業にし、御宿行きの切符を買っていた。
***第三章 海鳴りの鎮魂歌***
海辺の町、御宿は、都心の喧騒が嘘のような、穏やかな空気に満ちていた。潮の香りが鼻腔をくすぐり、遠くから寄せては返す波の音が、まるで子守唄のように聞こえる。俺は、アルバムの写真と植物図鑑を手に、町の人々に聞き込みを始めた。
古い写真を見せても、ほとんどの人は首を傾げた。しかし、町の小さな郵便局で、年配の局員が写真を見るなり「ああ、小夜子さんだね」と呟いた。
「昔、この町で療養していたんだよ。体が弱くてね。絵を描くのが好きな、綺麗な人だった」
局員の話を頼りに、小夜子さんが滞在していたという古い療養所の跡地を訪ねた。今はもう廃墟となっているその場所で、俺は一人の老婆と再会した。時雨堂を訪れた、あの老婆だった。彼女は、まるで俺がここに来ることを知っていたかのように、静かに海を見つめていた。
「お待ちしていましたよ」老婆は穏やかに微笑んだ。「私は、小夜子の妹の千代と申します」
彼女の口から語られた真実は、俺の心を根底から揺さぶるものだった。
小夜子さんは、若き日の父の恋人だった。画家を目指していた彼女と、植物学者を夢見ていた父。二人はこの町で出会い、愛し合った。しかし、小夜子さんは持病が悪化し、二十歳という若さでこの世を去ったのだという。
「兄…あなたの父は、姉が亡くなった後も、ずっと、ずっと姉のことを想っていました。毎年、姉の命日になると、必ずこの町を訪れて、姉が好きだった花を、あそこの丘にある墓に供えていたんですよ」
千代さんが指さした先には、海を見下ろす小さな丘があった。俺は息を呑んだ。そして、核心に触れる言葉が続いた。
「健太さん。あなたのお父様が、あなたの写真家の夢に反対した本当の理由を、知っていますか」
俺は、ただ黙って彼女の次の言葉を待った。
「あの方は、あなたに自分と同じ想いをさせたくなかったからです。あの方も、植物学者になるという夢を追いかけていた。でも、姉の看病や、実家の家業を継がねばならないという事情で、その夢を諦めざるを得なかった。夢を追うことの輝きと、それを失うことの絶望を、誰よりも知っていた。だから、愛する息子には、自分のような辛い思いをさせたくなかった。安定した、堅実な道を歩んでほしかった。…本当に、不器用な愛情でしたね」
言葉を失った。父が俺の夢を否定した時、その目に宿っていたのは、軽蔑ではなく、苦悩だったのかもしれない。俺の才能を信じられないのではなく、俺が傷つく未来を恐れていたのかもしれない。
「この植物図鑑は」と、千代さんは続けた。「兄が、病室の姉のために、外の世界の花々を描いて届けようとしたものです。でも、完成する前に、姉は逝ってしまった。だから、これは未完のまま、兄の想いと共に時が止まっていたのです。私が『元の持ち主に返してほしい』と言ったのは、そういう意味です。姉の元へ、あなたのお父様の変わらぬ想いを、あなたが届けてあげてほしかった」
父の、あまりにも永く、深い悲しみと愛情。俺が反発し、理解しようともしなかった、あの無口で厳格な背中の後ろに隠されていた真実。俺は、その場に崩れるように膝をつき、声を殺して泣いた。遠くで響く海鳴りが、まるで父の鎮魂歌のように聞こえた。
***第四章 時雨堂の光***
東京に戻った俺は、以前とは違う目で「時雨堂」を見つめていた。父が夢を諦め、俺を縛り付けるために選んだ場所だと思っていたこの古書店は、そうではなかった。家族を守るため、そして、おそらくは本の中に夢の残骸を探すために、父が選び取った城だったのだ。
俺はまず、店の奥にある小さな物置を片付けた。そして、そこに小さな作業スペースを作った。父の遺品の中から、彼が若い頃に使っていた古いフィルムカメラを探し出し、自分のデジタルカメラの隣に並べた。プロの写真家になる道は、もう選ばないだろう。だが、写真を撮ることをやめる必要はない。父が愛した風景、父が見たかったであろう世界、そして、俺がこれから見つけていく光を、自分のために撮り続ければいい。
数日後、俺は再び御宿の丘を訪れた。小夜子さんの小さな墓の前には、千代さんが供えたのだろう、瑞々しい野花が手向けられていた。俺は持参した植物図鑑をそっと墓石の前に置いた。そして、父のカメラを構え、ファインダーを覗いた。海からの光を受けて輝く墓石と、そこに寄り添う一冊の本。シャッターを切った瞬間、まるで長い時間をかけて父の想いを小夜子さんに届けられたような、不思議な安堵感に包まれた。
時雨堂での日々は続く。古書の匂いと、時折響くドアベルの音。それはもう、俺にとって退屈な日常ではなかった。カウンターに立ち、客と本について言葉を交わす時間にも、ささやかな喜びを見出せるようになっていた。
ある雨上がりの午後だった。雲の切れ間から強い光が差し込み、店の窓ガラスに残った雨粒をきらきらと輝かせた。その光は、店内に幻想的な虹色の帯を作り出し、カウンターの上に置かれたあの植物図鑑を柔らかく照らしていた。
俺は、自分のカメラを手に取った。
ファインダー越しに見える光景は、あまりにも静かで、美しかった。父の愛と悲しみ、千代さんの優しさ、そして、過去と和解し、今を生きようとする俺自身の心が、その光の中に溶け合っているようだった。
カシャリ、と乾いたシャッター音が店内に響く。
撮れた写真には、特別な何かが写っているわけではない。ただ、雨上がりの光が満ちる古書店の一隅が、そこにあるだけだ。
だが、その写真に添えるタイトルは、もう決まっていた。
「雨上がりの栞」
父が遺した物語に、俺がそっと挟んだ、新しい始まりの栞だ。俺は、その写真を机に飾り、深く、穏やかな呼吸をした。時雨堂に流れる時間は、これからもゆっくりと、続いていく。
雨上がりの栞
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