***第一章 白紙の頁が囁くとき***
神保町の古書街の片隅に、父から受け継いだ「みずの古書店」はひっそりと佇んでいる。埃とインクの匂いが混じり合った独特の空気が、時間の流れを緩やかにしていた。僕、水野蒼(みずのあおい)は、その澱んだ空気の中で、死んだ時間のように日々をやり過ごしていた。客のまばらな午後、カウンターの奥で古書の染みを落とす作業は、過去の染みを抱えたままの自分自身への慰めにも似ていた。
その本が持ち込まれたのは、冷たい雨がアスファルトを濡らす日のことだった。古びた革の旅行鞄を抱えた老人が、一冊の本を差し出した。装丁は黒い革張りで、タイトルも著者名もない、無地の本。老人は「この本は、読むべき人の手にあるのが一番だ」とだけ呟き、代金も受け取らずに店を去っていった。
奇妙な出会いに戸惑いながらも、僕はその本を開いた。しかし、どのページも完全な白紙だった。陽にかざしても、特殊なインクの痕跡すらない。ただの上質な羊皮紙の束。悪戯か、あるいは何かの暗号だろうか。溜め息をつき、本を閉じようとした、その時だった。
僕の指先が触れたページに、まるで滲み出すように、インクの染みが生まれ、瞬く間に流麗な文字の列を成したのだ。心臓が跳ねた。慌てて指を離すと、文字は蜃気楼のように揺らめいて消え、ページは再び純白に戻った。
恐る恐る、もう一度、指を置く。すると、同じ場所に、同じ文字が浮かび上がった。
『今日、風詠みの丘で、ガラス蜻蛉の群れを見た。陽の光を浴びて、七色に輝く翅は、まるで砕かれた虹のかけらのようだった。とても綺麗だった』
それは、明らかに僕の知らない世界の、僕の知らない誰かの日記だった。混乱と好奇心がないまぜになった感情に突き動かされ、僕はページをめくった。指を滑らせるたびに、空白だったはずの紙面は、リリアと名乗る少女の言葉で満たされていった。そこには、二つの月が浮かぶ夜空や、歌を歌う植物、そして「影」と呼ばれる正体不明の脅威に怯えながらも、懸命に生きる少女の日常が、鮮やかに綴られていた。この日を境に、僕の灰色だった日常は、白紙の頁の向こう側に広がる、鮮やかな異世界の色に染まり始めた。
***第二章 二つの月と一人の友達***
リリアの世界に、僕は急速に引き込まれていった。彼女の日記は、僕にとって唯一の窓だった。毎晩、店の明かりを落とした後、僕はカウンターの隅で、その黒革の本を開いた。指先から伝わる微かな温もりと共に、リリアの言葉が僕の心に流れ込んでくる。
彼女の世界は、幻想的で、どこか懐かしい匂いがした。『水晶の川の水は甘い蜜の味がする』『星屑茸の胞子は、夜になると淡い光を放ちながら舞い上がる』。そんな描写を読むたび、僕の五感は鈍い現実から解き放たれ、色彩豊かな彼女の世界を自由に彷徨った。
リリアは明るく、好奇心旺盛な少女だった。だが、彼女の日記には時折、深い孤独の影が落ちていた。
『今日は「影」が村の近くまで来た。みんな不安そうな顔をしている。私も怖い。でも、怖いって言える人がいない。もし、この気持ちを分かち合える友達がいたら、少しは強くなれるのかな』
その一文を読んだ時、僕の胸は締め付けられた。友達がいない。その孤独は、僕自身がずっと抱えてきたものと同じだったからだ。僕は、五年前に失った幼馴染の沙耶を思った。彼女がいなくなってから、僕は誰にも心を開けずにいた。
僕はまるで、リリアに返事を書くかのように、彼女の日記を読み続けた。彼女が悲しんでいる日は、僕も心を痛め、彼女が新しい発見に喜ぶ日は、僕も口元を緩ませた。いつしかリリアは、僕にとって、顔も声も知らない、けれど誰よりも大切な友達になっていた。
ある日、リリアの日記に奇妙な記述が現れた。『空の向こうには、全く違う世界があるんだって。そこでは、鉄の蛇が人を運び、夜でも太陽みたいに明るい街があるらしい。想像もつかないな』。それは紛れもなく、僕のいる世界のことだった。なぜ彼女が? 二つの世界は、僕が思うよりも深く、不思議な縁で結ばれているのかもしれない。僕は、この繋がりをもっと知りたいと、強く願うようになった。リリアに会いたい。叶うはずのない願いが、胸の内で確かな熱を帯びていくのを感じていた。
***第三章 影の正体と砕かれた追憶***
リリアとの静かで穏やかな交流は、ある日、唐突に終わりを告げた。いつものように本を開くと、そこに浮かび上がったのは、これまでの穏やかな筆致とは似ても似つかない、乱れた絶望の文字だった。
『「影」が、来た。もう、だめ。空が、黒く塗り潰されていく。歌っていた植物は枯れ、水晶の川は濁ってしまった。みんな、消えていく。世界が、終わる』
心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。ページをめくる指が震える。続くページには、さらに短い悲鳴のような言葉が並んでいた。助けて。怖い。消えたくない。
僕は無力だった。ただ文字を読むことしかできない。彼女の世界で起きている災厄を、指一本動かせずに見ていることしかできない。どうして。なぜ急に。僕が混乱の極みに達した時、最後から二番目のページに、静かな、しかし、あまりにも衝撃的な言葉が綴られていた。
『この世界が、何でできているのか、やっとわかった。ここは、誰かの「忘れられた記憶」でできた、儚い庭だったんだ。「影」の正体は、その記憶の持ち主が抱える、癒えない悲しみ。その人が心を閉ざし、過去から目を背けるほどに、影は濃くなり、世界を喰い尽くす』
忘れられた記憶。癒えない悲しみ。その言葉が、僕の心の奥底に突き刺さる。そして、最後のページ。そこに記されたリリアの言葉が、僕の世界を根底から覆した。
『私の世界を創ったのは、あなた。水野蒼さん。私は、あなたが忘れてしまった、あなたの「あり得たかもしれない未来」の断片。あなたが愛した、沙耶という少女の、叶わなかった夢の欠片』
その瞬間、僕の頭の中で、固く閉ざされていた記憶の扉が、凄まじい音を立てて破壊された。そうだ。思い出した。五年前の、あの雨の日。僕たちは、高校からの帰り道、横断歩道で信号を待っていた。くだらない話で笑い合い、彼女は「大人になったら、蒼と一緒に、世界中の不思議なものを集める本屋さんを開きたいな」と言った。信号が青に変わる。僕が少し先を歩き、振り返った瞬間、制御を失ったトラックが彼女に――。
リリアの世界は、僕が作り出したものだった。沙耶が生きていたら見せてあげたかった美しい風景。彼女が好きだと言っていたガラス細工や星空。それら全ては、僕が悲しみから逃れるために、無意識の奥底に創り上げ、そして封じ込めた、壮大な箱庭だったのだ。僕が現実から目を背け、沙耶を失った悲しみに沈むほどに、その負の感情が「影」となって、僕自身が創った世界を、リリアを、蝕んでいた。
この本は、異世界への窓などではなかった。僕自身の心、その深淵へと繋がる、鏡だったのだ。
***第四章 君のいない世界で***
全てを理解した時、涙が堰を切ったように溢れ出した。本の上に落ちた雫が、インクを滲ませる。ごめん、リリア。ごめん、沙耶。僕が、君を二度も苦しめていたんだ。
僕は、震える声で、白紙の本に向かって語りかけた。それは、沙耶への、そしてリリアへの、五年越しの懺悔だった。
「沙耶、ごめん。僕は君を守れなかった。君がいなくなった世界で、どう生きていけばいいか分からなかった。だから、君との思い出ごと、僕の心を閉ざしてしまった。君がくれた優しい記憶も、一緒に見ていた夢も、全部、悲しみと一緒に封じ込めて……。それが君を、リリアを苦しめていたなんて、知らなかった。本当に、ごめん」
僕は、沙耶との楽しかった日々を、一つ一つ、声に出して思い出した。初めて一緒に見た映画、喧嘩したこと、図書館でこっそり交わした約束。悲しみから目を逸らすのではなく、その悲しみごと、彼女との思い出を抱きしめる。それが、僕にできる唯一のことだった。
「ありがとう、沙耶。君と出会えて、本当に幸せだった。君がくれた時間は、僕の宝物だ。もう、逃げない。僕は、君のいないこの世界で、前を向いて生きていくよ。君の夢だった、この古書店を、僕がちゃんと守っていくから」
僕がそう誓った瞬間、黒革の本が、胸が熱くなるほどの温かい光を放った。眩しさに目を細めると、完全に白紙に戻っていたはずの最後のページに、金色のインクで、最後の一文がゆっくりと浮かび上がってきた。
『ありがとう、蒼。これで私も、光の中へ還れる。忘れないで。私はあなたの心の中で、ずっと友達だよ』
その文字は、まるで微笑みかけるように優しく輝き、そして、静かに消えていった。光が収まると、本はただの古い革張りの本に戻っていた。もう二度と、僕の指に反応して文字が浮かぶことはなかった。
あれから、数年の月日が流れた。僕は「みずの古書店」の店主として、父の跡を継いだ。埃とインクの匂いがするこの場所は、もう僕にとって死んだ時間の牢獄ではない。訪れる客と本について語り合い、新しい物語との出会いを手伝う、愛おしい日常の舞台だ。
時々、僕はカウンターの引き出しから、あの黒革の本を取り出す。ページは変わらず白紙のままだ。けれど、その純白の向こうに、僕はガラス蜻蛉が舞う風詠みの丘や、二つの月が輝く夜空を、確かに見ることができる。
リリアはもういない。沙耶もいない。でも、彼女たちが僕に教えてくれたことは、僕の血肉となっている。喪失は消えない。悲しみは、時として嵐のように心を揺さぶる。けれど、それごと抱きしめて生きていく強さを、僕は知った。
店の窓から、夕暮れの空を見上げる。そこには当たり前のように、月が一つだけ浮かんでいる。かつて、その当たり前の光景に絶望した僕がいた。だが今は、この何気ない日常が、たまらなく愛おしい。
僕は微かに微笑み、空に向かって小さく呟いた。
「見ているかい、リリア。こっちの世界も、なかなか悪くないよ」
風が、僕の頬を優しく撫でていった。それはまるで、遠い記憶の庭からの、優しい返事のようだった。
空白のクロニクルと忘れられた庭
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