ミナトの生きる世界は、灰色だった。空も、大地も、そこに生きる人々も、全てが濃淡の異なるインクで描かれた水墨画のようだった。人々はそれを「大静寂」後の世界の姿だと諦観と共に語り、かつて世界を満たしていたという「色彩」を、おとぎ話のように口にするだけだった。
だが、ミナトには秘密があった。彼には、触れたモノやヒトに残された記憶を、「色」として視る力があったのだ。彼はその力を『彩憶』と呼んでいた。古びた石壁に触れれば、そこに降り注いだであろう黄金色の陽光が瞬き、老人の皺だらけの手に触れれば、その胸に咲く若き日の恋の記憶が、鮮烈な赤色となって網膜を焼いた。
しかし、その色は一瞬で消え去る幻。幻が消えるたび、ミナトは世界の灰色をより一層強く意識させられ、癒えぬ渇きと孤独を募らせた。なぜ自分だけが、失われたはずの色を垣間見ることができるのか。なぜ世界は、こんなにも色を失ってしまったのか。
答えを求め、ミナトは旅をしていた。世界から色を奪った「大静寂」の謎を解き、色を取り戻す鍵とされる遺物――『唄う石』を探して。古文書によれば、それは「忘れられた奏者の塔」の頂に眠っているという。
風化した石を積み上げた塔は、まるで巨大な墓標のように、灰色の平原に突き刺さっていた。入口を守っていたのは、一体の古びた自動人形(オートマタ)。人間ほどの背丈を持つ、滑らかな金属の身体。関節の隙間からは、青白い光が漏れている。
「何人たりとも、この先へは通さぬ」
合成音声が、感情の乗らない響きで告げる。ミナトが構わず一歩踏み出すと、自動人形は瞬時に距離を詰め、その金属の腕を振りかぶってきた。ミナトは咄嗟に身を躱し、反撃の隙を窺う。だが、その動きはあまりに速く、正確だった。何度か攻撃を凌ぐうち、ミナトの肩が人形の腕に掠ってしまう。
その瞬間、世界が爆ぜた。
――鮮やかな緑の風が吹き抜ける丘。ハープを奏でる少女の、亜麻色の髪。彼女が微笑みながら、出来たばかりの自動人形の頭を撫でる。その指先から伝わる、陽だまりのような温かいオレンジ色の光。『あなたの名前はアルマ。私の唄と、記憶を守ってね』――
「……アルマ」
ミナトの口から、無意識に名前がこぼれた。幻から我に返ると、自動人形は動きを止め、ただじっとミナトを見つめていた。その青白い光が、わずかに揺らめいたように見えた。ミナトは武器を収め、ゆっくりとアルマに歩み寄る。
「君は、彼女の記憶を守っていたんだな」
アルマは答えなかった。だが、ミナトが塔の内部へ足を踏み入れても、もう制止しようとはしなかった。ただ静かに、ミナトの後ろをついてくるだけだった。
螺旋階段を上り詰めた先、塔の頂はドーム状の天窓に覆われた小部屋だった。そして、その中央。黒曜石の台座に、それは安置されていた。赤、青、黄、緑……内側から柔らかな光を放つ、虹色の石。あれが『唄う石』に違いない。
ミナトは高鳴る鼓動を抑え、ゆっくりと石に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、石は眩いばかりの光を放ち、ミナトの意識を白一色に染め上げた。世界に、色が戻る。長年の渇望が、今、満たされる。
やがて光が収まり、ミナトがおそるおそる目を開く。
しかし、彼の目に映ったのは、何も変わらない灰色の塔の壁だった。
「……なぜだ?」
絶望が、ミナトの心を塗り潰していく。だが、ふと隣に立つアルマに目をやった彼は、息を呑んだ。アルマの金属の身体が、鈍い光沢を放つ銀色に見えたのだ。天窓の向こうには、どこまでも澄んだ青空が広がっている。足元の床石には、瑞々しい緑色の苔が生えていた。
世界は灰色のまま。だが、ミナトの目にだけ、鮮やかな色彩が映っていた。
混乱する彼の脳裏に、『唄う石』から直接、声ではない「理解」が流れ込んでくる。
――この石は、世界の調律器ではない。汝の心の、調律器なり。世界は色を失いてあらず。汝が、色を拒みしのみ――
衝撃の真実。
世界は、もともと色に満ちていた。色を失っていたのは、世界ではなく、ミナト自身だったのだ。
彼の脳裏に、封じ込めていた記憶が蘇る。幼い日、災害で家族を目の前で失った絶望。悲しみに耐えきれず、彼の心が「もう何も見たくない」と叫んだ瞬間、世界から一切の色が抜け落ちたのだ。
『彩憶』の力も、失われた色を渇望するあまり、他人の記憶から色を盗み見るために心が作り出した、悲しい幻影に過ぎなかった。
自分の旅は、壮大な勘違いだった。世界を救うどころか、自分の心の傷から目を背けていただけだったのだ。ミナトはその場に崩れ落ち、顔を覆った。借り物の色で彩られた世界は、ひどく冷たく、空虚に感じられた。
その時、冷たい金属の感触が、彼の手にそっと触れた。
顔を上げると、アルマが静かに佇んでいた。その青白い光は、まるで慰めるかのように優しく明滅している。
ミナトは、アルマの手を握り返した。『彩憶』は使わなかった。ただ、その金属の感触から、かつて視た少女の記憶の温かさを、自分の心で感じようとした。借り物の色ではない、記憶に込められた想いを。
ありがとう、アルマ。君は、ずっと大切なものを守っていたんだな。
ミナトは、心の底からそう思った。彼は立ち上がり、虹色に輝く『唄う石』を、そっと台座に戻した。借り物の色はいらない。自分の力で、もう一度この世界と向き合おう。失われた悲しみも、これからの喜びも、全て受け止めて。
彼が、銀色のアルマに向かって、偽りのない微笑みを浮かべた、その瞬間。
彼の目に映る灰色の世界に、ほんのわずか、夜明けの光のような淡いセピア色が差した。
それはまだ、おとぎ話で語られるような鮮やかな色彩にはほど遠い。だが、ミナトにとっては、何よりも確かな希望の色だった。
灰色の世界を取り戻す旅は終わり、今、ミナトが自分の心の色を取り戻す、本当の旅が始まった。彼の隣には、言葉を発しない、温かい記憶を持つ友が寄り添っていた。
灰色の世界の調律師
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