***第一章 文字の雨が降る場所***
水野湊の時間は、黴と古紙の匂いが染みついた古書店の奥で、埃と共に静かに堆積していた。祖父から受け継いだこの場所は、彼にとって世界の全てであり、同時に現実から身を隠すための心地よい柩でもあった。客のまばらな昼下がり、彼は背表紙の擦り切れた本を修繕し、インクの染みを指でなぞりながら、ページの中にだけ存在する真実と心を交わしていた。
その日は、朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。雨音は、湊を世界の喧騒からさらに遠ざけてくれる優しい結界のようだった。店の奥、祖父の遺品が詰め込まれた開かずの書庫で、彼はふと、一つの木箱に目を留めた。これまで一度も気にしたことのなかったその箱の中から現れたのは、深緑色の革で装丁された、表紙に何の文字も刻まれていない一冊の古書だった。
まるで生き物のように、ひんやりと、しかし確かな脈動を伝えるその本に、湊は抗いがたい力で引き寄せられた。埃を払い、震える指で重い表紙を開いた、その瞬間。
ページの間から、インクの匂いを凝縮したような風が吹き荒れ、眩い光が溢れ出した。古い活字が渦を巻き、彼の視界を埋め尽くす。本の重みが消え、代わりに奇妙な浮遊感が全身を包んだ。悲鳴を上げる間もなく、湊の意識は闇に溶けていった。
次に目を開けた時、彼は見知らぬ草原に横たわっていた。驚くべきは、空から降るものが雨粒ではなく、ひらがなや漢字、アルファベットといった無数の「文字」であることだった。それらははらはらと舞い落ち、地面に触れると淡い光を放って消えていく。頬を撫でる風は、湿った紙の匂いがした。
「目が覚めましたか、漂流者さん」
鈴を転がすような声に顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。切り揃えられた黒髪に、墨を溶かしたような瞳。白いワンピース姿の彼女は、まるで物語から抜け出してきたかのように非現実的な雰囲気をまとっていた。
「ここは…どこだ?」
「『綴葉(とじは)の世界』です。忘れられた物語が流れ着き、そして消えていく場所」
少女はこともなげに言った。彼女は自らを栞(しおり)と名乗り、この世界の案内人であると告げた。栞によれば、湊が持っていたあの無地の古書は、二つの世界を繋ぐ稀有な「扉」であり、彼は偶然ではなく、この世界に「呼ばれた」のだという。
「呼ばれた?僕が?」
「はい。この世界は今、消えかけています。物語を記憶し、愛してくれる人がいなくなると、世界は少しずつ白紙に戻っていくのです。あなたには、それを止める力がある」
栞の言葉は、湊には到底信じられるものではなかった。現実から逃げ、物語の中に閉じこもっていただけの自分に、世界を救う力などあるはずがない。だが、彼の目の前で静かに降り注ぐ文字の雨と、インクの色をたたえて流れる小川は、ここが紛れもない「異世界」であることを雄弁に物語っていた。湊は、自分の人生という退屈な物語が、思いもよらない一文から、新たな章を始めようとしている予感に身を震わせた。
***第二章 忘れられた物語の修復師***
栞に導かれ、湊は綴葉の世界を旅することになった。そこは、彼の想像を絶するほど美しく、そして哀しい場所だった。かつて誰かの胸を熱くさせた英雄の城は、主の名を忘れられ、輪郭を失って霧に溶けかけていた。子供たちの夢を乗せて空を飛んだはずの幻獣は、翼の形を思い出せずに地面を彷徨っていた。
「物語は、誰かに読まれ、記憶されることで命を保ちます。忘れられることは、死と同じなのです」
栞はそう言って、崩れかけたレンガの壁にそっと触れた。すると、壁から「勇気」「希望」といった文字がこぼれ落ち、光の粒となって消えた。
湊は、自分が何をすべきかを理解し始めていた。彼は古書店の店主として、無数の物語を読んできた。その知識が、ここでなら意味を持つのかもしれない。彼はまず、題名を失った童話の断片を集め、登場人物の関係性を解き明かし、失われた結末を推測して語り聞かせた。すると、色褪せていた挿絵の風景は鮮やかな色彩を取り戻し、言葉を失っていた登場人物たちは再びセリフを紡ぎ始めた。
「すごい…!まるで魔法使いみたいです」
目を輝かせる栞に、湊は照れ臭そうに首を振った。だが、胸の内には確かな喜びが芽生えていた。誰にも必要とされていないと思っていた自分の知識が、消えゆく命を繋ぎとめる力になっている。人との関わりを避け、物語の中に安寧を見出していた彼が、物語を救うことで、初めて現実的な手応えと他者との繋がりを感じていた。
日々は穏やかに過ぎていった。湊は物語の「修復師」として、栞と共にいくつもの物語を救った。その過程で、彼は栞という少女自身にも惹かれていった。彼女のふとした仕草や、優しい声色が、心の奥底に封印していたある記憶を呼び覚ます。病気で早くに逝ってしまった、最愛の妹の面影。
「栞さんは、なんだか俺の妹に似ている」
ある夜、焚火を囲みながら湊がそう呟くと、栞は一瞬、哀しげに瞳を揺らした。
「…そう、ですか」
それきり彼女は黙り込んでしまった。その横顔に浮かんだ寂寥の影が、湊の心に小さな棘のように引っかかった。この穏やかな世界と、心優しい少女の裏には、まだ自分の知らない、もっと深く、もっと哀しい秘密が隠されている。そんな予感が、彼の胸を締め付けていた。
***第三章 創造主の罪と未完の約束***
綴葉の世界に平穏が戻りつつあるように見えた頃、栞は深刻な顔で湊に告げた。この世界の中心核である「始まりの物語」が、今まさに崩壊しようとしている、と。それが失われれば、これまで修復した全ての物語もろとも、世界そのものが完全に消滅してしまうという。
「始まりの物語…?それは、どんな話なんだ?」
「私にも分かりません。それはこの世界の最も深い場所に封じられ、誰も読むことができないのです。でも、扉を開ける資格があるのは、あなただけのはず」
二人は世界の中心、巨大な図書館のような神殿へと向かった。最も神聖なその場所には、たった一冊だけ、白紙の表紙の本が厳かに安置されていた。それが「始まりの物語」だった。湊が恐る恐る手を伸ばし、そのページを開いた瞬間、忘れかけていた記憶の奔流が、彼の魂を激しく揺さぶった。
そこに描かれていたのは、見慣れた子供の拙い絵と、必死に綴られた文字。病室のベッドで笑う少女と、その傍らで本を読み聞かせる少年。それは、湊自身が、十年以上も前に書いた物語だった。病弱な妹・海(うみ)を励ますため、彼女が好きだった要素を全て詰め込んで、毎晩少しずつ書き足していった、世界でたった一つの物語。
そして、栞の正体にも気づいてしまった。彼女は、湊が物語の中で創り出した、元気になった妹の理想の姿だったのだ。
「思い…出してくれましたか。お兄ちゃん」
隣に立つ栞の姿が、陽炎のように揺らぎ始める。彼女の瞳からは、インクのような涙が静かにこぼれ落ちた。
綴葉の世界は、誰かが紡いだ物語の集合体などではなかった。この世界そのものが、湊が妹のために紡ぎ、そして彼女の死と共に耐えきれず、未完のまま放棄した物語の成れの果てだったのだ。彼の罪悪感と悲しみが、この世界を歪ませ、忘れ去ろうとする彼の心が、世界を崩壊へと導いていた。彼はこの世界の救世主などではない。世界を創り、そして見捨てた、唯一人の「創造主」だった。
「ごめん…ごめん、海…」
湊はその場に崩れ落ちた。妹の死を受け入れられず、楽しかった思い出ごと、この物語を記憶の地下牢に封印した。逃げ出したかった。忘れたかった。その身勝手な願いが、妹の唯一の形見であるこの世界を、ゆっくりと殺していたのだ。空から降る文字は勢いを増し、それはもはや優しい雨ではなく、湊の罪を責め立てる礫となって降り注いでいた。
***第四章 君が遺した栞***
世界の崩壊が始まった。神殿の床が抜け落ち、書架が白紙のページとなって風に舞う。湊の目の前で、栞の体も足元から透き通り、光の粒子となって霧散し始めていた。
「行かないでくれ、栞!海!」
湊は叫び、消えゆく彼女の腕を掴もうとするが、その手は空しく空を切るだけだった。
「いいの、お兄ちゃん。私は、お兄ちゃんが創ってくれた物語の中で、たくさん走って、たくさん笑った。…幸せだったよ」
栞は、最後の力を振り絞るように微笑んだ。
「だから、もう自分を責めないで。悲しい結末のまま、物語を終わらせないで。忘れないで…でも、前に進んで」
その言葉を最後に、栞の姿は完全に光の中へと消えた。後に残されたのは、圧倒的な静寂と、自分の無力さを噛み締める湊だけだった。
だが、彼はもう逃げなかった。妹が遺した最後の願い。物語を完成させること。それが、彼女の死と向き合い、自分の罪を贖う、唯一の方法だった。
彼は立ち上がり、虚空に向かって手を伸ばした。すると、彼の強い意志に応えるように、一本の万年筆がその手に現れた。それは、彼が妹に物語を書いていた時に使っていた、思い出のペンだった。
湊は、白紙に戻りつつある「始まりの物語」の最後のページに向かい、涙で滲む視界の中、ペンを走らせた。
彼は、妹の死を書いた。少年がどれほど悲しみ、絶望したかを書いた。だが、物語はそこで終わらなかった。少年は少女との約束を胸に、彼女のいない世界で生きていくことを決意する。彼女がくれた優しさや笑顔を、今度は自分が誰かに与えるために。別れは終わりではなく、新たな始まりなのだと。喪失を抱えたまま、それでも人は前を向いて歩き出せるのだと。
最後の一文を書き終えた瞬間、世界は真っ白な光に包まれた。
水野湊は、古書店の冷たい床の上で目を覚ました。窓から差し込む陽光が、埃をきらきらと輝かせている。まるで長い夢から覚めたような感覚だった。傍らには、あの深緑色の古書が、何事もなかったかのように静かに閉じられている。
全ては幻だったのか。そう思いかけた彼の目に、机の上に置かれた一枚のものが飛び込んできた。
それは、押し花が挟まれた、美しい栞だった。そして、そこには見覚えのあるインクで、こう書かれていた。
『ありがとう、お兄ちゃん』
湊は、その栞をそっと手に取り、胸に当てた。涙が溢れたが、それはもう、後悔や罪悪感の涙ではなかった。
彼は立ち上がり、店の扉を開けた。雨上がりの街は、まるで生まれ変わったかのように瑞々しく、世界の全てが鮮やかな色彩を放っているように見えた。
湊は、空を見上げて深く息を吸い込んだ。彼はもう、物語の中に閉じこもるだけの男ではない。失われたものとの繋がりを、哀しみではなく愛として胸に抱き、この現実世界で、彼自身の新たな物語を生きていくのだ。
その顔には、静かだが、どこまでも澄み切った微笑みが浮かんでいた。
綴葉の世界と始まりの物語
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