大学の講義は退屈で、コンビニバイトは単調で、夜は動画サイトを眺めて眠るだけ。橘翔太(たちばな しょうた)にとって、世界は灰色にピクセル化された退屈なゲームのようだった。そんなある朝、彼はスマートフォンのホーム画面に見慣れないアプリが追加されていることに気づいた。
『Aether Link(エーテル・リンク)』
歯車と羅針盤を組み合わせたような、妙に凝ったデザインのアイコンだ。不審に思いながらも、退屈しのぎにタップしてみる。
起動したのは、カメラ機能だった。だが、ただのカメラではない。視界に映るあらゆるものに、半透明のタグが付与されている。AR(拡張現実)アプリの一種らしい。
【道端の小石:コモン素材。エーテル変換可能】
【自動販売機:変換不可】
【カラス:対象外】
「エーテル変換?」
画面の隅には『MP(マテリアルポイント):152/1000』というゲージがある。どうやら歩くことで貯まるポイントらしい。好奇心に駆られた翔太は、足元の小石にカメラを向け、変換ボタンを押した。変換リストに『光石の欠片(消費MP:50)』という項目がある。
「うわ、だっさ…」
厨二病的なネーミングに苦笑しつつ、実行する。スマホの画面上で、小石がまばゆい光を放つCGエフェクトに包まれ、キラキラと輝く宝石のようなグラフィックに変わった。だが、現実は何も変わらない。足元には、ただの薄汚い小石が転がっているだけだ。
「だよな。手の込んだゲームだ」。
がっかりして、彼はその石を拾い、無意識にジーンズのポケットに突っ込んだ。
その夜、バイトを終えて自室に戻った翔太は、ポケットの中の異物感に気づいた。取り出したのは、公園で拾ったあの小石。だが、それはもうただの石ではなかった。コンクリートの塊だったはずのそれが、仄かに熱を帯び、手のひらの上で淡い、しかし確かな光を放っていたのだ。
「うそだろ……」
心臓が大きく跳ねた。翔太は部屋を飛び出し、夜の街を夢中で歩き回った。MPを貯めるためだ。退屈だったアスファルトの道が、宝の山へ続く冒険のロードに変わった瞬間だった。
自販機で買ったペットボトルは『低級ポーション』に、公園に落ちていた枯れ枝は『見習いの杖』に変わった。彼の部屋は、一夜にしてファンタジー世界の道具で満たされていった。
アプリには『ディストーション(歪み)討伐』というクエスト機能もあった。『最寄りの歪み:Lv.1 ゴブリン・スカウト』。場所は、いつも通る近所の路地裏だ。
恐る恐る現場へ向かい、アプリを起動する。AR画面の向こう、ゴミ集積場の影に、それはいた。緑色の肌、尖った耳、ぼろ布をまとった醜い小鬼が、キョロキョロと周囲を警戒している。
翔太はゴクリと唾を飲み込み、変換したばかりの『見習いの杖』を握りしめた。ゲームだ。これはゲームなんだ。自分に言い聞かせ、アプリのチュートリアル通りに杖を振るう。すると、杖の先端から光の弾が放たれ、寸分たがわずゴブリンの額に命中した。
「ギィッ!?」
甲高い悲鳴と共に、ゴブリンは光の粒子となって霧散する。そして、後には一枚の汚れた銅貨が、カランと音を立てて現実のアスファルトに落ちていた。
「すげぇ……!」
鳥肌が立った。恐怖よりも、興奮が勝っていた。世界はゲームだと思っていたが、こんなにも面白いゲームだったなんて!
それから数日、翔太はディストーション討伐にのめり込んだ。しかし、その夜、彼の慢心は打ち砕かれることになる。調子に乗って受けた高レベルのクエスト。現れたのは『Lv.15 シャドウ・ハウンド』。AR画面に映るそれは、これまでの敵とは明らかに違った。
『グゥルルルル……』
その唸り声は、スマホのスピーカーからではなく、現実の空気を震わせて鼓膜を揺さぶった。漆黒の獣がアスファルトを引っ掻くと、本物の傷跡が刻まれる。これはゲームじゃない。現実を侵食する『何か』だ。
恐怖で金縛りになった翔太に、シャドウ・ハウンドが牙を剥いて飛びかかった。
――死ぬ。
そう思った瞬間、夜の闇を切り裂く閃光が走った。轟音と共にシャドウ・ハウンドが吹き飛ばされ、悲鳴を上げて消滅する。
呆然とする翔太の前に、一人の少女が立っていた。銀色の髪を夜風になびかせ、翔太と同じようにスマホを構えている。だが、彼女の周囲には、強力な装備が放つであろう青白いオーラが揺らめいていた。
「新入り? 無茶するんじゃないわよ。そいつ、『現実侵食(リアル・オーバー)』を起こしかけてた」
ミサキと名乗る彼女は、呆れたように言った。そして、このアプリの信じがたい真実を語り始める。
エーテル・リンクは、崩壊寸前の異世界『アルストリア』と我々の世界を繋ぐためのもの。我々の世界のありふれた物質をエーテルに変換してアルストリアに送ることで、かの世界を修復しているのだと。
ディストーションは、二つの世界の不安定な境界から漏れ出してくる本物の魔物。放置すれば、やがて現実世界を喰らい尽くす。そして、アプリを持つ我々『リンカー』は、二つの世界を繋ぎ、そして守るために選ばれた存在なのだと。
「ただの……ゲームだと……」
翔太は愕然とした。自分の無知が招いた危機と、この世界の途方もない広大さに。
「怖いならやめてもいい。リンカーの資格を放棄すれば、記憶も消せる」
ミサキはそう言うと、自分のスマホを一瞥し、翔太の目を真っ直ぐに見つめた。
「でも……退屈じゃ、なくなるわよ」
その言葉が、翔太の心のど真ん中を射抜いた。
そうだ。退屈だった。何もかもが色褪せて見えていた。だが、今はどうだ? この小さなガラスの板の向こうには、救うべき世界と、胸の躍る冒険が広がっている。
翔太は、自分のスマホを強く握りしめた。画面には、新たなディストーションの出現を知らせる通知が、まるで心臓の鼓動のように明滅している。
「やります。俺も、リンカーになります」
彼の瞳に、もう灰色の退屈は映っていなかった。世界と世界を繋ぐデジタルの扉は、今、確かに開かれたのだ。
デジログ・ゲート
文字サイズ: