音響技師である俺、相羽響(あいばひびき)の日常は、音を探し、捉え、整えることで成り立っていた。その日、俺がいたのは古びた教会の薄暗い聖堂。依頼は、老朽化したパイプオルガンの音響調査だった。
「……なんだ、この音は」
ヘッドフォンをつけた耳に、奇妙な違和感が突き刺さる。人間の可聴域をわずかに超えた高周波ノイズ。それは悲鳴のようでもあり、誘いの歌のようでもあった。興味を抑えきれず、俺は特殊な集音マイクを向け、録音を開始した。波形データは激しく乱れ、見たこともないパターンを描く。解析のため、録ったばかりの音を再生した、その瞬間。
キィン、という甲高い音が脳を貫き、世界がぐにゃりと歪んだ。視界が真っ白に染まり、俺は意識を手放した。
次に目を開けた時、俺は森の中にいた。だが、知っている森とは何もかもが違った。
ザァァ……と風に揺れる木々の葉は、まるで弦楽器のように和音を奏で、足元の小川はコポコポと軽快なリズムを刻んでいる。蝶のような生き物が羽ばたく音さえ、澄んだベルの音色に聞こえた。世界そのものが、巨大なオーケストラだった。
「——何者だ? なぜ『無音』を纏っている?」
凛とした声に振り返ると、リュートのような楽器を抱えた少女が立っていた。彼女は警戒心を露わにしながらも、その瞳は好奇心に揺れている。
「無音……?」
「そうだ。お前の周りだけ、音が死んでいる。それは禁忌のはずだ」
少女はリラと名乗った。この世界——『響鳴世界(きょうめいせかい)』では、音は万物の根源であり、物理的な力を持つという。歌で傷を癒し、楽器で嵐を鎮める『響術』が存在するのだと。そして、音が完全に失われた状態、すなわち『静寂』は『死』と同義であり、最も忌み嫌われるものらしかった。
俺がいた世界には当たり前に存在する『無音』が、ここでは異常。そして、俺の持っていた録音機材——特にノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンは、この世界で唯一『静寂』を能動的に作り出せるアーティファクトだった。
リラに連れられて辿り着いた街は、巨大な管楽器のように設計されており、風が吹き抜けるたびに壮大な音楽を奏でていた。しかし、その美しい音色とは裏腹に、街には影が差していた。
『沈黙の病』——体が徐々に音を発する能力を失い、最後には存在そのものが消滅してしまうという奇病が、人々を蝕んでいたのだ。リラの妹も、その病に罹っているという。
「原因は、世界のどこかで鳴り響く『不協和音(ノイズ)』だと考えられています。世界の調律を乱し、生命の響きを奪っていく呪いの音……」
リラは俯き、唇を噛んだ。その『不協和音』という言葉に、俺は教会で聞いたあの高周波ノイズを思い出していた。俺がこの世界に来た原因と、この世界を蝕む病の原因は、繋がっているのではないか。
俺は仮説を立てた。俺の持つ音響技術でその『不協和音』を解析し、逆位相の波をぶつければ、打ち消せるかもしれない。それはつまり、この世界で禁忌とされる『静寂』を人為的に作り出すということだ。
「危険すぎる!」リラは反対した。「完全な静寂は、世界そのものを崩壊させかねない!」
「だから、あんたの力が必要なんだ」俺はリラを真っ直ぐに見つめた。「一瞬だけノイズを相殺し、生まれた真空地帯に、あんたの歌を叩き込む。世界で最も純粋な『調和の音』で、不協和音を上書きするんだ。世界の再調律(リチューニング)だ」
それは、科学と響術の融合。前代未聞の賭けだった。だが、リラの瞳に迷いはなかった。妹を、そして世界を救うために。
『不協和音』の発生源は、世界の中心にある『音の源泉』と呼ばれる巨大な結晶洞窟だった。空間そのものが歪み、耳を찢くような不快な高周波が渦巻いている。
俺は機材をセットし、リラは息を整えた。
「行くぞ!」
俺がスイッチを入れると、スピーカーから逆位相の波形が放たれる。世界から、音が消えた。風の歌も、地面の脈動も、全てが止まる。息苦しいほどの完全な『静寂』。世界が悲鳴を上げ、空間に亀裂が走る。
「今だ、リラ!」
その、世界の終わりを思わせる一瞬の静寂の中へ、リラの歌声が響き渡った。それは傷を癒す祈りの歌。生命を祝福する喜びの歌。生まれたての赤子のような、どこまでも純粋で力強い『調和の旋律』。
俺の機材が増幅したリラの歌声は、光の波となって『不協和音』を飲み込んでいく。キン、と澄んだ音が響き渡り、呪いのノイズは浄化され、世界の調律が修正されていくのが肌で感じられた。洞窟の結晶は再び輝きを取り戻し、優しく美しい共鳴音を奏で始めた。
世界の危機は去った。街に戻ると、人々から音が戻り、『沈黙の病』が癒えていく奇跡を目の当たりにした。俺とリラは英雄として迎えられた。
元の世界へ帰る方法も、おそらくは見つけられるだろう。あの『不協和音』が時空に開けた穴を、もう一度解析すればいい。だが、俺の心は決まっていた。
無音と静寂に満ちた世界で、音を追い求めてきた俺。音で満たされたこの世界で、初めて『静寂』の意味を知った俺。俺の知識と技術は、この世界でこそ真価を発揮する。
「俺は、ここに残るよ」
隣で微笑むリラにそう告げると、彼女は嬉しそうに頷き、新しい歌を口ずさみ始めた。それは、二つの世界の音が重なり合って生まれた、誰も聴いたことのない希望のメロディだった。
俺はもう音響技師じゃない。この響鳴世界で、ただ一人の『調律師』になったのだ。
響鳴世界の調律師
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