古いインクと乾いた紙の匂いが、水沢湊の世界の全てだった。図書館の地下書庫、その一番奥の棚で彼が見つけたのは、表紙に何の装飾もない、黒革の一冊だった。指先がそれに触れた瞬間、視界が白く塗りつぶされる。次に目を開けた時、彼は全く知らない場所に立っていた。
そこは、途方もなく巨大な図書館だった。だが、円形の壁に沿って並ぶ書架はほとんどが崩れ、そこに収められていたはずの本は、まるで風化した骨のように白く脆い塵の山と化していた。静寂が支配するドーム状の空間に、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。
「――よくぞおいでくださいました、"編纂者"さま」
声の方を振り向くと、そこに半透明の少女が立っていた。月の光を編んで作ったような、儚い姿。
「ここは、世界の記憶を収める場所、『アニムの図書館』。私はリリア。この場所を守る、最後の司書です」
少女はそう言って、悲しげに微笑んだ。
リリアの話によれば、この世界は「忘却の霧」と呼ばれる現象に蝕まれているという。人々は徐々に過去の出来事を忘れ、偉大な魔法の呪文も、かつて愛した詩の一節も、やがては思い出せなくなる。世界の記憶そのものが、死にかけているのだ。
「湊さま、あなたはこの世界を救うために呼ばれたのです。勇者の剣でも、賢者の魔法でもありません。あなたの、その指先が持つ力で」
湊は自分の手を見つめた。日本の図書館で、破れたページを繕い、虫食いの古書を修復してきた、ただの司書の手だ。しかし、リリアに促されるまま、足元の塵の山にそっと触れてみると、奇跡が起きた。
指先から放たれた淡い光が、塵に吸い込まれていく。すると、塵はみるみるうちに形を取り戻し、一冊の立派な本へと再生したのだ。湊がページをめくると、そこには失われたはずの古代王国の歴史が、色鮮やかな挿絵と共に記されていた。
「すごい……」
思わず漏れた感嘆の声に、リリアは嬉しそうに頷いた。
それから湊の仕事が始まった。それは彼にとって、天職とも言える作業だった。朽ちかけた本を修復するたびに、この世界の美しい神話や、心震える英雄譚、空を翔る竜の生態などが蘇る。それは湊の知的好奇心を限りなく満たし、彼は次第に自分の役割に誇りを感じ始めていた。リリアが隣で微笑んでくれることも、彼の心を温かくした。この静かな場所が、彼にとっての本当の居場所になりつつあった。
世界の忘却は、湊の奮闘にもかかわらず、その進行を緩めない。リリアの姿も、日ごとに薄くなっているように見えた。焦りを覚えた湊は、ついに図書館の最も奥深く、厳重な錠で封印された一冊の禁書に手を伸ばすことを決意する。
「それだけは、いけません」
リリアが悲痛な声で制止した。
「そこには、この世界で最も悲しい記憶が……"忘却"が始まった本当の理由が記されています。それを読めば、あなたはきっとこの世界を嫌いになる」
「それでも、知らなければならないんだ。君が消えそうになっている理由も、きっとそこにあるんだろう?」
湊の言葉に、リリアは泣きそうな顔で首を横に振るだけだった。湊は覚悟を決め、禁書に指を触れた。修復の光が奔ると、図書館全体が激しく揺れ、リリアの体が陽炎のように揺らめき始める。
やがて、本は完全にその姿を取り戻した。そこに記されていたのは、想像を絶する真実だった。
「忘却の霧」は、天災などではなかった。それは遥か昔、この世界を終わりのない大戦から救った、初代の「編纂者」が生み出した究極の魔法だった。彼もまた、湊と同じ異世界人。あまりにも多くの血が流れた悲劇を、人々が永遠に忘れることで平和を維持しようとしたのだ。
そして、その巨大な魔法を今も支え続けている核こそが、初代編纂者の魂そのもの――リリアだった。湊が禁じられた「悲しみの記憶」を蘇らせたことで、彼女の存在意義そのものが揺らぎ、消滅しかけていたのだ。
「ごめんなさい……あなたに、美しい世界だけを見ていてほしかった……」
消え入りそうな声で、リリアが謝罪する。彼女の輪郭はほとんど光の粒子と化していた。
湊は、修復したばかりの禁書を強く抱きしめた。ページからは、血と涙の匂いが立ち上ってくるようだった。しかし、彼は首を振る。
「嫌いになんてなるものか。辛い歴史も、苦しい記憶も、全部含めてこの世界なんだ。君がたった一人で、ずっと守り続けてきたものなんだろう」
彼は決断した。忘却の魔法を解くのではない。悲しみを無かったことにはしない。
湊は空っぽのページを開くと、鞄から持参していた愛用の万年筆を取り出した。インクは、この図書館に満ちる魔力そのものだ。
「僕が、この物語の続きを書く」
彼は修復者であることをやめ、新たな歴史を紡ぐ「編纂者」となった。彼のペンが紙の上を走る。大戦の悲劇の次に、彼はそれを乗り越えた人々の強さと、平和の尊さを書き記した。絶望の隣に、希望の詩を添えた。
湊が言葉を紡ぐたび、本から金色の温かい光が溢れ出し、図書館を満たしていく。光を浴びたリリアの体は、再び確かな輪郭を取り戻し、以前よりも強く輝き始めた。
忘却の霧は晴れないだろう。だが、それはもはや呪いではない。人々が過去と向き合い、未来へ進むための道標として、図書館の記憶は生まれ変わったのだ。
「ありがとう、湊。私の、編纂者」
リリアが、心の底から微笑んだ。その笑顔を見て、湊もまた微笑み返す。
元の世界に帰るという選択肢は、彼の頭から綺麗に消えていた。この静かな図書館で、愛しい司書と共に、世界の物語を紡ぎ続ける。それこそが、水沢湊が見つけた本当の幸福だった。
ドームに覆われた巨大な図書館に、ペンが紙を擦る音だけが、いつまでも心地よく響いていた。
編纂者と忘却の図書館
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