空の底の重力職人

空の底の重力職人

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足が滑った、と思った瞬間、柏木翔太の視界は反転した。ビルの窓を拭くゴンドラの無機質な金属音、同僚の悲鳴、そしてアスファルトが急速に迫ってくる絶望感。高所恐怖症の自分にとって、それは想像しうる限り最悪の死に方だった。意識がブラックアウトする直前、翔太はただ、地面が恋しいと願った。

次に目を開けた時、翔太は硬い石畳の上に横たわっていた。鼻をつくのは、嗅いだことのない香辛料と湿った石の匂い。体を起こすと、そこは異国情緒あふれる路地裏だった。
「助かったのか…?」
安堵したのも束の間、翔太は信じがたい光景に息を呑んだ。見上げた空には、青空を背景に、巨大な島がいくつも浮かんでいたのだ。滝が島から島へと流れ落ち、奇妙な鳥たちがその間を縫うように飛んでいる。そして、自分が今いるこの場所もまた、空に浮かぶ島の一つであることに気づき、血の気が引いた。
「うわあああっ!」
悲鳴と共に、翔太は地面にへばりついた。足元がおぼつかない。この島には柵も手すりもない場所が多すぎる。数メートル先はもう、雲が渦巻く奈落なのだ。恐怖に駆られ、近くにあった建物の壁に背中を押し付ける。落ちる、落ちてしまう。
「お兄さん、すごいね!『重力靴(グラビブーツ)』もなしに、壁にそんなぴたっとくっつけるなんて」
溌剌とした声に顔を上げると、栗色の髪をポニーテールにした少女が、不思議そうにこちらを見下ろしていた。見下ろしていた、というのは文字通りの意味で、彼女は翔太の頭上、壁面に逆さまに立っていたのだ。
「な、なんで…」
「え? 重力靴を履いてるからだけど…って、あれ? お兄さんの足、斥力(せきりょく)が漏れてる。もしかして、才能ある人?」

少女の名はリナ。この天空都市アークソラで「重力職人」の見習いをしているという。彼女に半ば引きずられるように連れてこられた工房で、翔太は隻腕の親方・ギデオンと出会った。
ギデオンは翔太の体を一瞥するなり、ニヤリと笑った。
「こいつは逸材だ。無意識に重力子を制御して、微弱な斥力フィールドを張ってやがる。天性の『重力感応(グラビ・センス)』持ちだ」
重力職人とは、この世界に存在する「重晶石」から重力エネルギーを抽出し、加工する者たちのこと。彼らが作った重力靴によって、人々は壁や天井を歩き、都市のインフラは空中に維持されている。
翔太はそんなことより、一刻も早く安定した「大地」に降りたいと訴えた。しかし、ギデオンはこともなげに言う。
「大地だと? あそこは忘れられた場所だ。アークソラから下界へ降りるには、都市の心臓部『大重力炉』の管理パスを持つ一級職人になるか、小島の一つも買えるほどの大金を払うか、どっちかだな」
絶望する翔太に、ギデオンは選択肢を与えた。「俺の弟子になれ。その才能を磨けば、一年で一級職人にしてやる。どうだ?」
他に道はなかった。翔太は、泣きながら頷いた。

翔太の地獄の修行が始まった。
まずは重力靴に慣れることから。壁を歩くだけで足がすくみ、天井を走れば脳が平衡感覚を失って嘔吐した。隣の浮遊地区まで、幅三十メートルの谷を跳躍する訓練では、三回に一回は落下しかけ、そのたびにリナに斥力ロープで引き上げられた。
「翔太は才能あるんだから、もっと自信持って!」
「うるさい! 怖いもんは怖いんだよ!」
しかし、彼の才能は本物だった。恐怖に震えながらも、その指先は重晶石から驚くほど精密に重力を抜き出し、別の石に込めることができた。重力を「曲げ」、斥力を「編む」。ギデオンも舌を巻くその繊細な技術は、高所への恐怖が研ぎ澄ませた究極の落下回避本能の賜物だったのかもしれない。

ある日、都市を「重力震」が襲った。老朽化した地区の重力発生装置が故障し、いくつかの建物がゆっくりと奈落へ傾き始めたのだ。悲鳴が響き渡る中、翔太はギデオンとリナと共に現場へ飛んだ。
眼下には渦巻く雲海。落下していく建物から、人々が手を伸ばしている。
「怖いか、小僧」
ギデオンの問いに、翔太は頷いた。足はガクガクと震え、奥歯が鳴る。
「でも」と翔太は続けた。「あんたやリナがいるこの街が、落ちちまうのはもっと怖い」
翔太は両手を突き出した。彼の脳裏に、複雑な重力制御の設計図が閃く。斥力と引力を複雑に編み合わせ、巨大な網を作り上げるイメージ。
「うおおおおっ!」
翔太の体から、目に見えない力の波が放たれた。傾いた建物がぐらりと揺れ、その落下がぴたりと止まる。斥力の網が、巨大な建物を空中で受け止めたのだ。
「す、すごい…」
リナが息を呑む。翔太は汗だくになりながらも、その力を維持し続けた。住民が全員避難するまで、彼は決して力を緩めなかった。初めて、自分の力が誰かの役に立った。空を見上げても、以前ほどの恐怖は感じなかった。

その半年後、アークソラは史上最大の危機を迎える。都市の心臓部である「大重力炉」が、原因不明の暴走を始めたのだ。このままでは都市全体がバランスを失い、空から墜落する。
炉の内部は、凶悪な重力の嵐が吹き荒れていた。屈強な一級職人たちすら、近づくことすらできない。
「原因はコアに巣食った『重力喰い』だ。奴が炉のエネルギーを喰らっている」
ギデオンは絶望的な状況の中、翔太の肩を掴んだ。
「翔太、お前にしかできん。その精密な重力感応で、嵐の中の『道』を見つけ、コアに到達しろ」
それは死地への片道切符に等しかった。だが、翔太は静かに頷いた。
「親方、俺が編み出した技、見ててくれよ」
翔太は炉の入り口に立つと、一枚の鉄板を足元に置いた。そして、鉄板の下に複雑な斥力フィールドを生成する。それは、まるで波を待つサーファーのようだった。
「行くぜ、『重力流道(グラビ・ストリーム)』!」
翔太が乗った鉄板は、荒れ狂う重力の渦の中へ、一筋の流れを捉えて滑るように突入していった。引力と斥力が竜巻のようにぶつかり合う中、翔太はまるで重力の流れを読んで波乗りをするように、危険な力場をすり抜けていく。
炉の最深部、赤黒い光を放つコアに、巨大な影のような魔物「重力喰い」がへばりついていた。
「お前が元凶か!」
単純なパワーでは勝ち目はない。だが、翔太には重力の流れが「見えて」いた。重力喰いが炉のエネルギーを吸い込む流れ、そして体内で増幅し、排出する流れ。その一点の歪みを、彼は見逃さなかった。
翔太は最後の力を振り絞り、針の穴を通すような精密さで、斥力の楔をその歪みに撃ち込んだ。
重力喰いの体内で、エネルギーの流れが逆流を始める。自らの力に耐えきれず、魔物は絶叫と共に収縮し、光の粒子となって消滅した。

暴走は止まり、アークソラは救われた。英雄となった翔太には、特例で一級職人の資格と、下界へ降りるための無制限パスが与えられた。
工房の前で、ギデオンとリナが彼を見送る。
「いつでも大地へ行けるぞ。お前の望みだったろ?」
翔太は頷き、そして空を見上げた。夕日に照らされた天空都市は、息を呑むほどに美しかった。壁を走り、空を跳ぶ人々。活気に満ちたこの街が、今は彼の故郷のように感じられた。
彼ははにかんで、首を振った。
「いや…もう少し、ここにいるよ。まだ、この空でやりたいことがあるんだ」
その足は、もう震えてはいなかった。高所恐怖症のフリーターが空に落ちてきた日から一年。柏木翔太の本当の冒険は、今、この空の底から始まろうとしていた。

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