記述世界の地図職人

記述世界の地図職人

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書庫の奥は、埃とインクと、忘れられた時間の匂いがした。図書館司書の僕、相沢 海(あいざわ かい)にとって、そこは世界のどの場所よりも落ち着く聖域だった。その日、僕はいつもと違う一冊を手に取った。本というよりは、金属とも革ともつかない奇妙な手触りの板に挟まれた、一枚の古地図。羊皮紙にはインクではなく、まるで光を練り込んだような銀色の線で、見たこともない大陸が描かれていた。

指先がその銀線に触れた瞬間、視界が真っ白に染まった。

次に目を開けた時、僕の足は固い大地を踏みしめていなかった。そこは空に浮かぶ巨大な岩塊の上。見上げれば、青空にいくつもの大陸が島のように浮かび、地平線の彼方では、世界の一部がまるで巨大な消しゴムで乱暴にこすられたかのように、真っ白な虚無に侵食されていた。足元からは、滝のように雲が流れ落ちていく。書物の知識では到底説明のつかない光景に、僕は言葉を失った。

「あなた……『外』から来た人?」

振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。翡翠色の瞳に、風に揺れる銀糸の髪。古びたローブをまとった彼女は、僕が手に握りしめている地図を見て、息をのんだ。

「それは……『原初の設計図』。まさか、まだ存在していたなんて」

少女はリラと名乗った。彼女はこの世界――アトラス・ノヴァの理を紡いできた「記述師(ディスクライバー)」の最後の末裔なのだという。

リラの話は衝撃的だった。この世界は、かつて強大な力を持つ記述師たちが「記述」することで創造され、維持されてきた。天候、地形、物理法則に至るまで、全ては記された言葉によって定められている。しかし今、その力の源である「原初の記述」が弱まり、世界は「未記述領域(ブランク・ページ)」と呼ばれる虚無に飲み込まれ始めているのだと。

「世界の終わりが、すぐそこまで来ているの」

リラの声には、諦観と、それでも捨てきれない僅かな希望が滲んでいた。その時、僕らの足元が大きく揺れた。地平の虚無から、輪郭の曖昧な黒い影がいくつも生まれ、こちらへ向かってくる。世界の記述が崩れたことで生まれた、法則の歪みそのものだった。

「逃げて!」

リラが叫ぶ。だが、僕らがいる浮島と次の浮島の間には、数百メートルの断崖が口を開けていた。絶体絶命。恐怖に駆られた僕の脳裏に、一つの考えが閃光のように走った。まさか、そんなはずはない。でも、もし。

僕は震える手で、ポケットから万年筆を取り出した。そして、握りしめていた古地図――『原初の設計図』を広げ、二つの浮島を繋ぐように、一本の線を書き加えた。ただの、まっすぐな線を。

――刹那。

僕らが立っていた断崖の縁から、まばゆい光の粒子がほとばしった。光は対岸に向かって伸び、空中に一本の壮麗な橋を架けていく。それはインクの線がそのまま実体化したかのような、美しくも不可思議な光の橋だった。

「記述を……した? あなたが?」

リラが信じられないものを見る目で僕を見つめる。僕自身、何が起きたのか理解が追いつかない。ただ、手の中の地図が、心臓のように温かい光を放っていた。現実世界で培った、地図を読み解き、その理を理解する僕の知識と能力が、この世界では創造の力に直結していたのだ。

僕はこの世界の人間じゃない。だから、この世界の法則に縛られない。新しい理を、この世界に「記述」できる唯一の存在なのかもしれない。

黒い影が目前に迫る。僕はリラの手を掴み、光の橋へと駆け出した。

「行こう、リラ。世界の中心へ」
「えっ……?」
「その『原初の記述』ってやつを見つけに行くんだ。終わりかけてるなら、新しい物語を書き足してやればいい。違うかい?」

平凡な図書館司書だった僕の声が、自分でも驚くほど力強く響いた。リラの翡翠色の瞳に、驚きと、そして確かな光が宿る。彼女は強く頷いた。

書庫の片隅でページの向こう側を夢想するだけだった僕は、もういない。目の前には、崩壊しかけた世界と、無限の可能性を秘めた真っ白な地図が広がっている。

僕はペンを握り直した。さあ、この世界の次のページには、一体どんな物語を書き込もうか。僕とリラの、世界を再編する旅が、今、始まった。

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