水上響(みずかみ ひびき)の最後の記憶は、横断歩道に鳴り響く甲高いブレーキ音と、愛用の音叉が手から滑り落ちる感覚だった。
次に目を開けた時、彼は見知らぬ森にいた。アスファルトの匂いはなく、土と草いきれの濃密な香りが肺を満たす。空を見上げれば、木々の葉擦れがまるで計算された和音のように響き渡り、吹き抜ける風は優雅な旋律を奏でていた。
「なんだ、ここは……」
夢か、あるいは死後の世界か。混乱する響の耳に、突如として不快な音が突き刺さった。それは黒板を爪で引っ掻くような、あるいはチューニングの狂ったラジオのような、存在そのものが「間違い」だと主張する音だった。
音の源へ駆け出すと、開けた場所で一人の少女が異形の獣と対峙していた。獣は、まるでテレビの砂嵐を無理やり固めたような、輪郭の曖昧な黒い塊だ。その全身から、先ほどの耳障りな不協和音が絶え間なく発生している。
少女は透き通るような声で何かを「歌って」いた。それは獣を鎮めようとする癒しの旋律なのだろう。だが、獣が発する圧倒的なノイズにかき消され、か細く震えるばかりだ。
「やめて……これ以上、森の音を乱さないで!」
少女の悲痛な叫びも、獣には届かない。獣が一際大きく身じろぎし、ノイズの波を放った瞬間、少女は膝から崩れ落ちた。
万事休す。そう思った瞬間、響の脳内に職業病とも言うべき分析が閃いた。
(違う……これは単なる騒音じゃない。特定の周波数が、半音のさらに四分の一ほどズレている……!)
元ピアノ調律師である彼の耳は、僅かな音のズレも許さない。あの獣の音は、世界の調和から逸脱した、明確な「エラー」だった。
エラーならば、修正できる。
響は無意識にポケットを探り、冷たい金属の感触に安堵した。仕事道具の音叉。基準となるA(ラ)の音を鳴らすためのものだ。
キィン、と澄んだ音が響く。
その完璧な440ヘルツの響きに、獣がぴくりと反応した。
響は目を閉じ、全神経を耳に集中させる。獣の不協和音、少女の歌、森の和音、そして自らが鳴らした音叉の音。全ての音を分解し、獣の音の「ズレ」だけを正確に捉える。
そして、そのズレを打ち消すための音――逆位相の音を、即興で口ずさんだ。
それは歌というより、正確無比なハミングだった。
響の口から紡がれた旋律が、獣の不協和音と衝突する。すると、世界から一切の音が消えたかのような静寂が訪れた。獣のノイズが、響の音によって完璧に「中和」されたのだ。
不協和音という存在意義を失った獣は、悲鳴を上げることもなく、陽光に溶ける霧氷のように光の粒子となって霧散した。
「……うそ……」
呆然と呟いたのは、助けられた少女だった。彼女は信じられないものを見る目で響を見つめている。
「あなたは……一体? あの不協和の獣を、歌で……?」
「いや、歌じゃない。ただ、少し音がズレていたから、合わせただけだよ」
響の答えに、少女はますます目を丸くした。
「音を、合わせる……? まさか、あなたは伝説の『調律師(チューナー)』なのですか?」
少女はリラと名乗った。彼女の話によれば、この世界「ハルモニア」は、万物が音で構成されているという。そして今、世界の根幹を成す「根源の音(ルート・コード)」に原因不明の乱れが生じ、その歪みから「不協和の獣(ディスコード)」が生まれ、世界の調和を破壊しているのだと。
人々は歌や演奏による「詠唱(アリア)」で獣に対抗するが、その根本原因である音の「ズレ」を正せる者は誰もいない。かつて、世界の調和を司ったという伝説の存在、「調律師」を除いては。
「俺が、調律師……」
響は自分の両手を見つめた。ピアノの鍵盤を叩き、弦を調整することしか能のない、ごく普通の男だ。だが、この世界では、その耳と技術が伝説の力になるらしい。
元の世界に帰れる当てはない。しかし、目の前で助けを求める少女がいる。そして、自らの耳が捉える世界の微かな「不協和音」が、どうしようもなく気になっていた。
「どうすればいい?」
響の問いに、リラは希望の光を宿した瞳で答えた。
「世界の歪みが生まれる源、『沈黙の神殿』へ向かうのです。そして、この世界の『根源の音』を、もう一度正しく調律してください!」
それは、ピアノ一台を相手にするのとは訳が違う。世界そのものを調律する旅。途方もない話だ。だが、響の胸には、恐怖よりも先に、プロの調律師としての好奇心と使命感が込み上げていた。
完璧なハーモニーで満ちた世界。それを聞いてみたい。奏でてみたい。
「わかった。行こう」
響は音叉を固く握りしめた。
「俺がこの世界の音、調律してやる」
こうして、異世界ハルモニアの存亡をかけた、一人の調律師の旅が始まった。その手にあるのは武器でも魔法でもない。ただ一つ、完璧な音を奏でるための、古びた音叉だけだった。
共鳴世界の調律師
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