三崎譲(みさき ゆずる)の人生は、赤インクと紙の匂いで満たされていた。校正者。それが彼の天職であり、世界のすべてだった。誤字を見つけ、文章のねじれを正す。その地味な作業に、彼は絶対的な自負を持っていた。
その日も、彼は古書店で手に入れた羊皮紙の奇書に没頭していた。読めない言語で書かれたそれは、しかし不思議と「文章」としての構造を持っていた。インクの滲み、文字のかすれ。三崎は職業病で、その不正確さが許せなかった。「ここの定義が曖昧だ。これでは意味が破綻する」と呟き、愛用の赤ペンで書き込みを入れた瞬間――視界が白光に塗り潰された。
気づけば、三崎は見知らぬ石畳の上に立っていた。天には二つの月が浮かび、街行く人々は中世ヨーロッパ風の衣装を纏っている。異世界。陳腐な言葉が脳裏をよぎったが、状況はそれを裏付けていた。
混乱の中、彼の耳に悲鳴が響く。見れば、広場の中央で黒い霧のようなものが渦を巻き、人々を襲っていた。
「『悲嘆の霧』だ! 詠唱師を呼べ!」
誰かが叫ぶ。やがて現れたローブ姿の男が杖を掲げ、叫んだ。
「光よ! 聖なる輝きよ! この邪悪なる闇を打ち払え!」
杖の先から眩い光が放たれる。だが、光は黒い霧に触れた途端、虚しく吸収されて消えてしまった。
「な、なぜだ!?」
詠唱師が愕然とする。三崎には、その理由が痛いほどわかった。
(ダメだ…定義が甘すぎる)
彼の校正者としての魂が疼く。あの詠唱は、「光」という言葉の定義が曖昧なのだ。「聖なる」とは何を基準に? 「輝き」の具体的な照度は? 「邪悪」の定義は? まるで推敲されていない初稿のようだ。
三崎は、恐怖よりも校正者としての使命感に突き動かされ、前に出た。
「あの、すみません」
「なんだ貴様! 素人は引っ込んでいろ!」
詠唱師に一喝されるが、三崎は怯まない。
「あなたの詠唱には致命的な欠陥があります。『光』という概念を定義するにあたり、その対極である『闇』、すなわちあの霧の構成要素を無視している。それでは言葉の力が霧に届きません。ただの独り言です」
「な、何を…」
この世界――ロゴスフィアは、「言霊(ことだま)」が物理法則を支配する世界だった。強い意志と正確な定義を伴う言葉は現実を書き換え、奇跡を起こす。だが、曖昧な言葉や負の感情から生まれた言葉は暴走し、「概念獣(イデア・ビースト)」と呼ばれる災厄を生むのだ。
あの『悲嘆の霧』も、誰かの絶望的な言葉から生まれたものに違いない。
「貸してください」
三崎は詠唱師から強引に杖を奪うと、目を閉じて意識を集中させた。彼には詠唱の才能はない。だが、文章の矛盾を正すことにかけては、誰にも負けない。
彼は杖をペンに見立て、世界という名の原稿に赤入れをするように、言葉を紡ぎ始めた。
「――これより、『悲嘆の霧』の概念定義を修正する」
詠唱ではない。静かで、淡々とした宣言。
「第一項。当事象を構成する『悲嘆』は、『喪失感に起因する一時的な感情の落ち込み』と再定義する。『永遠』『無限』といった永続性を示す語との接続を禁ずる」
霧の勢いが、わずかに弱まった。
「第二項。『光』の定義を以下に定める。波長380から750ナノメートルの可視光線。照度は10万ルクス。光源は、この世界における太陽と同一の恒星とする。その効能は『希望』の比喩的表現とし、『悲嘆』の対義語として機能させる」
周囲がざわめく。彼の言葉に応じて、何もない空間に太陽のような灼熱の光球が生まれ始めた。
「第三項、最終校正。『悲嘆』の先には『受容』と『静穏』が存在する。よって、この霧は役割を終え、速やかに霧散し、構成粒子は中性のマナへと還元されなければならない。以上、修正を承認する」
三崎が目を開くと、杖の先で輝く光球が、レーザーのように正確に霧の中心を撃ち抜いた。霧は悲鳴のような音を立て、一瞬で晴れていく。後には、雨上がりのような澄んだ空気が残るだけだった。
呆然とする詠唱師と、歓声を上げる群衆。三崎は杖を返すと、ふぅ、と息をついた。
「ご確認のほど、よろしくお願いします」
いつもの口癖が出た。
詠唱師は震える手で杖を受け取り、三崎を神でも見るような目で見つめた。
「君は…一体、何者なんだ…?」
三崎は少し考えて、はにかむように笑った。
「ただの校正者ですよ。この世界、どうも誤字脱字が多いみたいなので」
赤ペン一本で文章を正してきた男は、今、言葉の力で世界を正す。異世界に迷い込んだ校正者の、奇妙で壮大な冒険が、今まさに始まろうとしていた。
言霊の校正者
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