佐藤健太の人生は、退屈という言葉をそのまま形にしたようなものだった。平日は満員電車に揺られて会社へ行き、夜はコンビニ弁当を片手に無機質なアパートへ帰る。そんな彼の唯一の趣味は、休日に古道具屋の埃っぽい空気を吸い込むことだった。
その日も、彼は街角の寂れた店で、がらくたの山を漁っていた。そこで見つけたのが、一つの古びた羅針盤だった。真鍮製のそれは鈍い輝きを放ち、ガラスの下の文字盤には見慣れない文様が刻まれている。店主も「どこから紛れ込んだかねえ」と首を傾げるばかり。千円という値段に、佐藤は特に理由もなくそれを買った。
自室で羅針盤を磨いていると、突然、針がカタカタと震えだし、狂ったように回転を始めた。そして、ぴたりと一つの方向を指して止まる。窓の外、西の方向だ。何度向きを変えても、針は頑なに西を指し続ける。まるで「こっちへ来い」と誘うように。
翌週の土曜日、佐藤は好奇心に抗えず、リュックサックに水筒と羅針盤を詰め、家を出た。羅針盤が指し示す先は、開発から取り残された裏山の、さらに奥。鬱蒼と茂る木々をかき分け、汗だくでたどり着いたのは、苔むした小さな鳥居だった。忘れ去られた神社の跡地だろうか。羅針盤の針は、その鳥居の向こう側を、微動だにせず指していた。
「まさかな…」。自嘲気味に呟き、佐藤は吸い寄せられるように鳥居をくぐった。
瞬間、空気が変わった。森の匂いが濃くなり、湿度を含んだ風が頬を撫でる。驚いて空を見上げると、そこには淡い緑色と青色の、二つの月が浮かんでいた。背後を振り返れば、今くぐってきた鳥居が確かにある。しかし、その向こうに見えるはずの杉林は消え、代わりに巨大なシダのような植物が生い茂る、見たこともない森が広がっていた。
「異世界…?」
フィクションの世界だけの言葉が、現実となって目の前に突きつけられる。パニックになりかけた佐藤を現実に引き戻したのは、手のひらの羅針盤だった。針はくるりと向きを変え、今度は鳥居の方向を正確に指し示している。どうやらこの羅針盤は、この世界への入り口と出口を指し示す『ゲートの鍵』らしい。
帰り道が確保されていると分かった途端、恐怖は底なしのワクワクへと変わった。
それから、佐藤の二重生活が始まった。平日は平凡なサラリーマン。そして週末は、秘密の冒険者。彼は異世界で手に入れた虹色に輝く鉱石や、食べると体が温かくなる不思議な木の実をこっそり持ち帰り、日常の中でその非日常の欠片を噛みしめて楽しんだ。
ある週末、いつもより森の奥深くへ足を踏み入れた時のことだった。獣の唸り声と、少女の悲鳴が聞こえた。駆けつけると、緑色の肌をした醜い小鬼――ゴブリンが、ウサギのような長い耳を持つ少女に襲いかかっていた。
佐藤に戦闘能力はない。だが、彼のリュックには現代日本の知恵が詰まっている。彼は咄嗟にリュックから熊除けスプレーを取り出し、ゴブリンの顔めがけて噴射した。
「ギャアアアッ!」
強烈な刺激に目を押さえて悶えるゴブリンたち。怯んで後ずさる彼らに、佐藤は追い打ちをかけるように最大光量のLEDライトを浴びせかけた。真昼のような閃光に、闇に慣れたゴブリンたちは完全にパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「あ、ありがとうございます…!」
助けられた少女は、震える声で礼を言った。リリアと名乗った彼女は、佐藤が使った不思議な道具を「魔法の噴霧器」と「太陽の欠片」だと思い込んだらしい。キラキラと尊敬の眼差しを向けてくる。
「あなたは…偉大な賢者様か何かですか?」
「い、いや、ただの通りすがりで…」
しどろもどろになる佐藤に、リリアは懐いてしまった。彼女の話では、この森を抜けた先に大きな町があるという。
「今度、ぜひ私たちの町へお越しください!賢者様なら、きっと大歓迎されます!」
別れ際、リリアはそう言って深々と頭を下げた。
月曜日の朝。いつもの満員電車の中、佐藤はポケットの中を探り、先週末にリリアからもらったお礼の小石を握りしめた。ひんやりとして、滑らかな感触。それは、この退屈な日常が、もはや昨日までとは全く違う、輝く冒険に繋がっている証だった。
吊り革を握る佐藤の口元に、笑みが浮かぶ。
(さて、次の週末は町に行ってみるか。お土産に日本のスナック菓子でも持っていったら、リリアは喜ぶだろうか)
彼の心はもう、次の冒険への期待で満ち溢れていた。退屈だったはずの世界が、今は輝いて見えた。
週末冒険者の羅針盤
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