***第一章 色褪せた古書店と奇妙な扉***
水上湊の世界は、セピア色にくすんでいた。かつてカンヴァスを虹色に染め上げた情熱は、十年という歳月の中でゆっくりと色褪せ、今では古書の黴と紙の匂いが染みついた日常に埋もれている。美大を卒業し、画家として生きる夢に破れた彼が流れ着いたのは、街の片隅にひっそりと佇む古書店『時雨堂』だった。高く積まれた本の塔の狭間で、彼は世界の喧騒から身を隠すように息をしていた。
「湊くん、奥の倉庫、少し片付けておいてくれるかい」
老店主の優しい声に背中を押され、湊は店の最奥にある倉庫へと向かった。埃っぽい空気に満ちたその場所は、誰にも読まれず、忘れ去られた物語たちの墓場のようだった。湿った段ボールを動かしたその時、湊の視線は壁の一点に釘付けになった。そこには、あるはずのない扉があった。年季の入った楢材の、どこか異国情緒を漂わせる扉。蝶番は錆びつき、取っ手は鈍い金色に光っている。店主からは、そんな扉があるなどと聞いたこともない。
不審に思いながら近づくと、扉の隙間から、ふわりと不思議な香りが漏れ出てきた。それは、ただの黴や埃の匂いではなかった。雨上がりの土の匂い、咲き始めたばかりの花々の蜜の香り、そして何よりも――リンシードオイルとテレピン油が混じり合った、懐かしい絵の具の香りだった。湊の心臓が、忘れていたリズムで小さく跳ねる。
その日から、湊はあの扉に心を奪われた。仕事の合間にこっそり扉に触れては、その向こうにあるかもしれない世界に想いを馳せた。まるで、禁じられた果実だ。開けてはならない。開ければ、この平穏だが色褪せた日常が、根底から覆されてしまうような気がした。
しかし、運命は静寂を許さない。長く続いた梅雨のある日、外は灰色の雨が降りしきり、店内の薄暗い電球が頼りなく瞬いていた。客足は途絶え、世界から切り離されたような孤独感が湊を包む。その時、あの扉が、カタ、と微かな音を立てた。まるで、手招きするように。
吸い寄せられるように倉庫へ向かい、扉の前に立つ。隙間から漏れる香りは、いつもよりずっと強く、甘美だった。もう、抗えなかった。錆びた取っ手に手をかけ、ゆっくりと力を込める。ぎいぃ、と悲鳴のような軋みを上げて、忘れられた扉は、湊の前にその口を開いた。
扉の向こうに広がっていたのは、闇ではなかった。言葉を失うほどに鮮やかな、光の奔流。湊は、その非現実的な色彩の渦に、なすすべもなく飲み込まれていった。
***第二章 彩層の図書館***
意識が浮上した時、湊は柔らかな苔の上に横たわっていた。瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、見たこともない空だった。空は一枚のカンヴァスではなく、溶け合った水彩絵の具のように、茜色と瑠璃色、そして白金の光が幾重にも重なり、オーロラのように絶えずその表情を変えている。
「……ここは」
呆然と呟き、身を起こす。周囲は、巨大な図書館のようだった。天井という概念はなく、空まで続くかのように本棚がそびえ立ち、その間を、製本されたばかりのような美しい本が、色とりどりの蝶のようにひらひらと舞っていた。空気は澄み渡り、古い紙の香りと、どこからか漂う花の蜜の香りが混じり合っている。それは、あの扉の向こうから感じた香りそのものだった。
「ようこそ、彩層の図書館へ」
鈴を転がすような、しかしどこか儚げな声がした。振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。亜麻色の髪を緩やかに編み込み、真っ白なワンピースを身にまとっている。年の頃は十六、七だろうか。その瞳は、この世界の空と同じように、様々な色が混じり合った不思議な色合いをしていた。
「君は……?」
「私はリリア。この図書館の、しがない司書です」
リリアと名乗る少女は、そう言って優雅に微笑んだ。彼女の説明によれば、ここは「忘れられた物語」や「描かれなかった絵」、「奏でられなかった音楽」といった、創作者たちの想いの欠片が流れ着く場所なのだという。人々が夢見ることをやめ、情熱を失った時に、その魂の一部がここに集うのだと。
湊は、自分がなぜここにいるのか分からなかった。だが、現実世界の灰色の日々と比べ、この場所はあまりにも美しく、満ち足りていた。錆びついた心が、少しずつ潤っていくのを感じる。リリアは湊を案内し、図書館の様々な場所を見せてくれた。言葉が結晶化した泉、物語が生まれる瞬間に光を放つ樹木、完成しなかった絵画たちが静かに眠る回廊。そのどれもが、湊がかつて追い求めた、純粋な美の世界そのものだった。
彼は時を忘れ、リリアと語り合った。かつて画家を目指していたこと、夢に破れ、何もかもを諦めてしまったこと。リリアはただ黙って、その瞳で彼の言葉を、いや、彼の魂の色を受け止めているようだった。
「あなたの心の中には、まだたくさんの色が眠っているのですね。とても、綺麗」
リリアにそう言われた時、湊の胸に温かいものがこみ上げた。誰にも理解されないと思っていた孤独な魂を、この少女はたやすく見透かしている。現実になど、もう帰りたくない。この色彩と静寂に満ちた世界で、リリアと共に永遠に過ごせたら――。そんな甘い幻想が、湊の心を支配し始めていた。
***第三章 消えゆく世界と少女の涙***
穏やかな日々は、突如として終わりを告げた。ある日、図書館の空を覆っていた彩層の一角が、まるで絵の具が剥がれ落ちるように、色を失い始めたのだ。ひらひらと舞っていた本たちは力を失って地に落ち、輝いていた泉は濁っていく。
「リリア、これは一体……?」
湊が駆け寄ると、リリアは唇を固く結び、悲痛な表情で空を見上げていた。その白い頬を、一筋の涙が伝う。
「……時間が、ないんです」
彼女は絞り出すように言った。そして、この世界の真実を語り始めた。彩層の図書館は、人々の「創造の想い」をエネルギーにして存在している。しかし近年、人々が夢を見ることを忘れ、物語を紡ぐことをやめてしまったため、世界を維持する力が弱まっているのだという。このままでは、図書館に集まった全ての想いと共に、この世界そのものが「無」に帰してしまう。
「どうすれば……。何か、僕にできることはないのか」
「あります。あなたにしか、できないことが」
リリアは湊の目をまっすぐに見つめた。その瞳は、悲しみと、そして必死の願いで揺れていた。
「あなたも、この世界を構成する一人だから。あなたは、ただ迷い込んだわけじゃない。あなたの中の『忘れられた想い』が、この世界に助けを求めて、あなた自身をここに呼び寄せたんです」
そして、彼女は最後の、そして最大の真実を告げた。湊の心を、根底から揺るがす真実を。
「私のことを、覚えていませんか、湊さん」
リリアはそう言うと、そっと自分の胸に手を当てた。
「私は、あなたが創ってくれた存在です。ずっと昔……あなたがまだ、夢を諦めていなかった頃。たった一枚だけ完成させた、誰にも見せずにしまい込んだ絵。そこに描かれた少女……それが、私なんです」
湊の脳裏に、雷に打たれたような衝撃が走った。そうだ、思い出した。十歳の誕生日、両親に買ってもらったばかりの絵の具で、夢中になって描いた少女の絵。亜麻色の髪、不思議な色の瞳、白いワンピース。名前もつけた。『リリア』と。それは、彼の創造性の、最初の、そして最も純粋な結晶だった。しかし、成長するにつれて自分の才能のなさに絶望し、彼はその絵を、夢と共に屋根裏の奥深くに封印してしまったのだ。
「あなたが私を忘れた時から、私の身体は少しずつ透き通っていきました。あなたが筆を折った時から、この世界は色を失い始めた。お願い、湊さん……」
リリアの姿が、陽炎のように揺らめき始める。彼女は涙を流しながら、湊に手を伸ばした。
「もう一度、描いて。あなたの色で、この世界を満たして。私を……消さないで」
それは、かつての自分自身の魂からの叫びだった。夢を諦め、色を忘れ、逃げ続けてきた湊への、痛切な願いだった。彼は、自分の無力さに打ちひしがれ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
***第四章 空白のカンヴァスに捧ぐ***
絶望が、湊の心を黒く塗りつぶそうとしていた。自分に何ができる? もう十年も筆を握っていない。あの頃の情熱も、色彩を捉える感性も、すべて失ってしまった。
だが、消えかかったリリアの姿が、彼女が流した涙が、湊の心の最も深い場所を抉った。彼女は、自分が捨てた夢の亡霊だ。そして、その亡霊は、今にも消えそうな声で「生きたい」と叫んでいる。ここで見捨ててしまえば、自分は生涯、自分自身を許すことはできないだろう。
「……描くよ」
湊は、震える声で言った。
「描いてみせる。君を、この世界を。僕が忘れてしまった、すべての色を」
その言葉が合図だったかのように、湊の目の前に、一枚の真っ白なカンヴァスと、使い古された絵筆、そして七色に輝くパレットが現れた。それは、彼がかつて使っていたものと寸分違わなかった。
湊は絵筆を握った。懐かしい感触が、指先から全身に駆け巡る。深く息を吸い込み、パレットの上で色を混ぜ合わせる。何を描くべきか、迷いはなかった。目の前にいる、愛おしくも儚い、自らの魂の欠片。
彼は描き始めた。無心に、夢中に。リリアの亜麻色の髪、その一本一本の光の反射。様々な感情を映す不思議な瞳。彼女が立つ苔の大地。背後に広がる彩層の空。忘れていたはずの色彩が、次々と彼の内から溢れ出してくる。それは技術ではなかった。理屈でもない。ただ、彼女を生かしたい、この美しい世界を失いたくないという、魂の渇望そのものが、彼の腕を動かしていた。
湊がカンヴァスに一筆加えるたびに、世界が応えた。色褪せた空に再び光が差し、地に落ちた本たちが舞い上がり、濁った泉は輝きを取り戻していく。そして、透き通っていたリリアの身体が、確かな輪郭を取り戻していく。彼女は、涙を浮かべながらも、至上の幸福に満ちた微笑みで、描かれゆく自分自身の姿を見つめていた。
どれほどの時間が経っただろうか。湊が最後の一筆を置いた時、カンヴァスの中のリリアは、まるで今にも語りかけてきそうなくらい、生命力に満ち溢れていた。そして、図書館の世界は、湊が初めてここに来た時以上の、眩いばかりの色彩と光で満たされていた。
だが、それは別れの時が来たことをも意味していた。世界が安定を取り戻したことで、湊をこの世界に繋ぎとめていた力が、彼を現実へと送り返そうとしていたのだ。湊の身体が、ゆっくりと光の粒子になっていく。
「湊さん、ありがとう」
リリアは、もう涙を流してはいなかった。その笑顔は、カンヴァスの中の彼女と同じように、輝いていた。
「忘れないで。あなたが描き続けてくれる限り、私は、この世界は、永遠にあなたの傍にいるから」
「ああ、約束する」湊は頷いた。「もう二度と、君を忘れない」
光に包まれ、意識が遠のく。最後に見たのは、美しく再生した図書館で、誇らしげに微笑む、彼の最初の創造主の姿だった。
気がつくと、湊は『時雨堂』の倉庫の床に倒れていた。手には、屋根裏部屋からいつの間にか持ち出していた、古いスケッチブックが握られている。その最初のページには、十歳の彼が描いた、色褪せたリリアの絵があった。
一年後。街の一角に、小さなアトリエができていた。窓から差し込む西陽が、部屋に並べられたいくつものカンヴァスを照らし出している。その絵は、どれも鮮烈な色彩と、物語を秘めた生命力に満ちていた。水上湊の名は、新進気鋭の画家として、少しずつ人々の知るところとなっていた。
湊は、新しいカンヴァスに向かい、筆を走らせる。彼の描く空は、いつもどこか不思議な彩層を帯びていた。彼の描く人物の瞳には、様々な色の光が宿っていた。
彼はもう一人ではなかった。カンヴァスの中に、そして彼自身の魂の中に、あの図書館と、約束を交わした司書が生き続けている。創造するとは、命を与えること。そして、想い続ける限り、その命は永遠なのだと。
窓の外に広がる夕焼けは、まるで彩層の図書館の空のように、茜色と瑠璃色に美しく燃えていた。湊は、その空に向かって、小さく微笑んだ。
彩層の図書館と忘れられた約束
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