薫る木屑と、未投函の告白

薫る木屑と、未投函の告白

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***第一章 父の秘密***

父が死んだ、という報せは、まるで遠い国の出来事のように俺の耳を通り過ぎていった。桐島健斗、二十八歳。システムエンジニア。俺にとって父・誠一は、血こそ繋がっていても、心の距離は銀河の果てほども離れた存在だった。

無口で、頑固で、仕事一筋の家具職人。最後に言葉を交わしたのはいつだったか。思い出そうとしても、立ち上るのは埃っぽい作業場の匂いと、黙々と木材を削る背中だけだ。そんな父が、あっけなく心筋梗塞で逝った。涙は、一滴も出なかった。

葬儀を終え、数年ぶりに足を踏み入れた実家は、父の不在をことさらに主張していた。ひんやりとした空気の中に、微かに木の香りが漂っている。俺は感傷を振り払うように、遺品整理を始めた。父の聖域だった仕事部屋へ足を踏み入れる。壁一面に並ぶ使い込まれた道具たち。鉋、鑿、鋸。それらはまるで、主を失って眠りについた古代の兵士のようだった。

その部屋の隅、図面棚の奥に、それはあった。南京錠で固く閉ざされた、古びた桐の小箱。こんなものがあっただろうか。好奇心に駆られ、道具箱から金槌を取り出して錠を壊す。乾いた破壊音と共に、箱の蓋が開いた。

中から現れたのは、セピア色に変色した一枚の写真。そして、分厚い手紙の束だった。
写真を手に取る。そこには、見知らぬ若い女性が、幼い子供を抱いて優しく微笑んでいた。背景は、どこかの海辺だろうか。一体、誰なんだ。
胸のざわつきを抑えながら、手紙の束に目を移す。黄ばんだ便箋は、すべて同じ筆跡で埋め尽くされていた。父の、あの無骨な字だ。しかし、そこに綴られていたのは、俺の知らない父の姿だった。

『拝啓 佐伯美咲様』

その名前にも見覚えはない。差出人はすべて父、桐島誠一。そして、すべての封筒は、封がされたまま、切手も貼られていなかった。未投函の手紙。俺は震える指で、一番上の封を開けた。

『……君が淹れてくれた珈琲の味を、今でも時々思い出す。ユキは元気にしているだろうか。俺は、父親失格だ。あの子の寝顔を見るたび、胸が張り裂けそうになる。佳代、すまない……。』

佳代は、俺が五歳の時に病死した母の名前だ。そして、ユキとは誰だ? 写真の子供か?

俺は次々と手紙を読んだ。そこには、苦悩と後悔、そして俺の知らない誰かへの切ない愛情が、無骨な言葉で綴られていた。そして、最後の手紙の一文が、俺の心を氷の杭で打ち抜いた。

『もしも叶うなら、もう一度だけでいい。君とユキに会って、あの頃のように笑いたい』

父に、別の家族がいたのか?
俺の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていくような感覚に襲われた。あの無口な父の背中に隠されていた、巨大な秘密。木の香りに満ちた部屋で、俺は一人、立ち尽くしていた。

***第二章 手紙が導く海***

父の秘密を知ってから、俺の世界は色褪せて見えた。モニターに並ぶ無機質なコードの羅列を眺めながらも、頭の中は手紙の言葉で埋め尽くされている。佐伯美咲とは誰なのか。ユキとは。俺は父の何を知っていたというのだろう。

手紙は、まるで父の日記のようだった。母・佳代を亡くしたあとの深い喪失感。慣れない手料理の失敗談。そして、俺が熱を出した夜に、一晩中うろたえ続けたこと。俺の記憶にある「何事にも動じない強い父」とは似ても似つかぬ、弱く、不器用で、愛情深い男の姿がそこにあった。

『健斗が、初めて「お父さん」と呼んでくれた。ただそれだけで、明日も生きようと思えた』

その一文を読んだ時、不覚にも目頭が熱くなった。理屈では説明できない感情が、胸の奥からせり上がってくる。俺は、この手紙の宛先である「佐伯美咲」に会わなければならないと思った。それが、父を、そして自分自身を理解するための、唯一の道筋のように思えた。

幸い、いくつかの封筒には住所が記されていた。神奈川県の、海に近い小さな町。俺は有給休暇を申請すると、新幹線に飛び乗った。

車窓を流れる景色が、都会のビル群から次第にのどかな田園風景へと変わっていく。手紙を読み返すたびに、父のイメージが再構築されていく。父が作る家具は、いつも驚くほど滑らかで、角という角が丁寧に丸められていた。幼い俺が怪我をしないように、という配慮だったのかもしれない。なぜ、今まで気づかなかったのか。無関心という名の壁で、俺は父を見ていなかったのだ。

目的の駅に降り立つと、潮の香りが鼻をくすぐった。地図アプリを頼りに、古い商店街を抜ける。古びた住所の示す場所は、蔦の絡まる小さな喫茶店だった。『喫茶 かもめ』と書かれた、色褪せた看板が揺れている。写真の背景にあった海辺の町と、どこか雰囲気が似ていた。

ドアのベルが、カラン、と乾いた音を立てる。珈琲の香ばしい匂いが俺を包んだ。カウンターの中にいたのは、柔らかな雰囲気を持つ、四十代半ばくらいの女性だった。手紙の写真の面影が、確かにある。

「あの……佐伯美咲さんでしょうか」

俺が声をかけると、女性は少し驚いたように顔を上げた。
「はい、私が佐伯ですが……」
「桐島誠一の、息子の健斗と申します。父が、先日……」
俺の言葉に、彼女は息を呑んだ。その瞳が、悲しみと、それ以上の何か複雑な色をたたえて揺れる。
「そう……でしたか……。誠一さんが……」
しばらくの沈黙の後、彼女は「どうぞ」と、奥のテーブル席を指し示した。「よかったら、お話を聞かせてください」。その声は、震えているようにも聞こえた。

***第三章 波打ち際の真実***

美咲さんが淹れてくれた珈琲は、深く、そして驚くほど優しい味がした。父が手紙に書いていた味は、これだったのか。俺は父の遺品である小箱と手紙のことを話した。父には別の家族がいたのではないか、という俺の問いかけに、彼女は悲しそうに首を振った。

「誠一さんに、別の家庭なんてありませんでした。彼が愛したのは、生涯、あなたのお母さんである佳代さんだけです」
「では、あなたは……。この手紙は……」
美咲さんは、カウンターの奥から一枚の古いアルバムを持ってきた。ページをめくると、そこにいたのは、若き日の父と、見違えるほど溌剌とした母、そして美咲さん自身だった。三人は、まるで本当の兄妹のように笑い合っている。

「佳代は、私の姉です」
「え……?」
「そして、誠一さんは、私の義理の兄。私は、あなたの叔母にあたるのよ、健斗くん」

叔母。その言葉が、頭の中で反響する。そんな話、一度も聞いたことがなかった。
「じゃあ、写真に写っていた、あの子供は……ユキというのは……」
美咲さんは、アルバムのあるページを指差した。そこには、海辺ではしゃぐ幼い子供と、それを見守る父、そして美咲さんの姿が写っていた。写真の中の子供は、紛れもなく、幼い頃の俺だった。

「ユキ、というのはね。健斗くん、あなたのことよ」
「俺……?」
「ええ。あなたは幼い頃、自分のことをうまく『けんと』って言えなくて、『ユキ』って呼んでいたの」

雷に打たれたような衝撃だった。謎だと思っていた写真は、叔母と、幼い自分自身の姿だったのだ。
美咲さんは、静かに語り始めた。母が亡くなった後、父は深い悲しみの底に沈み、生きる気力さえ失いかけていたこと。仕事も手につかず、たった一人で幼い俺を育てる自信をなくしてしまったこと。そして、苦悩の末に、父は俺を一時的に、義理の妹である美咲さんに預けたのだという。

「ほんの数ヶ月でした。でも、誠一さんにとっては、地獄のような時間だったはずです。毎日、仕事が終わるとここまでやって来て、眠っているあなたの顔を見て、涙をこらえて帰っていく。彼は、あなたを手放したことを、死ぬほど後悔していた」
手紙は、その苦悩のただ中で、誰にも言えない想いを吐き出すために書かれたものだった。俺を預けている美咲さんへの感謝と申し訳なさ。そして、日に日に大きくなる息子への、どうしようもない愛情。

「彼は不器用な人だったから。自分の弱さを、あなたの前で見せることができなかったのね。『強い父親』でいなければと、必死だったんだと思う」
やがて父は、憑き物が落ちたように仕事に打ち込み、見事に立ち直って、俺を迎えに来たのだという。

『君(美咲)とユキ(健斗)に会って、あの頃のように笑いたい』

あの一文は、父のもう一つの家族への未練ではなかった。家族が壊れかけたあの辛い時期を乗り越え、不器用ながらも必死で守り抜いた息子と、それを支えてくれた義妹との、温かい時間を取り戻したいという、切実な願いだったのだ。

俺の頬を、熱いものが伝っていくのがわかった。理屈で固めた心の壁が、音を立てて崩れ落ちていく。無口な父の背中には、俺の知らない、あまりにも深く、切ない愛が隠されていた。

***第四章 受け継がれる温もり***

実家に戻った俺は、もう一度、父の仕事部屋に立っていた。以前はただの埃っぽい場所にしか見えなかったそこが、今はまるで聖域のように感じられた。木の香り、道具に染み付いた油の匂い、壁に貼られた古い家族写真。そのすべてが、父・桐島誠一という男の、不器用で、しかし壮絶な愛の物語を語りかけてくるようだった。

俺は、父を何も理解していなかった。冷たい、つまらない男だと決めつけ、自ら距離を置いていた。だが、父は一人、孤独の中で俺への愛を書き連ね、家族の記憶を抱きしめ、俺を守り抜いてくれたのだ。遅すぎる後悔が、波のように押し寄せる。

部屋の片隅に、作りかけの小さな木馬が置かれているのに気がついた。白木のまま、まだ表面はざらついている。ふと、幼い頃、玩具屋の店先で木馬をねだって、父に「うちには木ならいくらでもある」と、そっけなく言われた記憶が蘇った。あの時、父は俺のために、これを作ろうとしていたのかもしれない。

俺は、壁にかかった鉋を、そっと手に取った。ずしりと重い。父が、来る日も来る日も握りしめていた重みだ。見よう見まねで、木馬の背を削ってみる。シュル、と音を立てて、か細い木屑が舞い上がった。不格好で、ぎこちない手つき。でも、不思議と心は穏やかだった。

父さん、ごめんなさい。そして、ありがとう。

声には出さない。だが、鉋を動かすたびに、その想いが木肌に刻まれていくような気がした。

窓の外では、空が静かに茜色に染まり始めていた。部屋に満ちる木の香りは、まるで父の温もりのようだ。言葉にしなくても、血が繋がっているという事実だけでもない。家族とは、こうして受け継がれていく想いの連鎖そのものなのかもしれない。

完成には、まだ程遠い。それでも俺は、父が残した温もりをこの手で形にするため、夢中で木を削り続けた。やがて訪れる夜の帳の中で、父と息子の、静かで確かな対話が、始まった気がした。

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