***第一章 錆びたポストと彼女の法則***
放課後の空気は、いつも微量の気怠さと解放感を溶け合わせている。俺、相沢樹にとって、それは一日のタスクを終えた後の、無味乾燥なインターバルに過ぎなかった。非生産的な時間は、俺の信条に反する。だから、誰もいないはずの旧校舎裏で、クラスメイトの七瀬陽菜が錆びついたポストに手紙を投函しているのを見つけた時、俺の思考は理解を拒絶した。
そのポストは、学校の歴史を物語るだけの鉄屑だ。投函口は固く閉ざされ、塗装は剥がれて赤錆が涙の跡のように流れている。郵便局員が回収に来るはずもない、忘れ去られた時間の墓標。
「何してるんだ、七瀬」
声をかけると、陽菜はリスのように驚いた顔で振り返り、すぐに花が綻ぶように笑った。
「相沢くん! 見てたの? これはね、『未来郵便』」
「未来郵便?」
オカルトか、あるいは新しいごっこ遊びか。俺の眉間の皺が深くなるのを、彼女は気にも留めない。
「そう。一年後の自分に手紙を送るの。そうすれば、未来の私が今の私の気持ちを忘れないでいられるでしょ?」
その言葉は、俺が最も嫌う種類の非合理性の塊だった。感情の保存? そんなものに何の意味がある。未来は過去のデータと現在の選択によって合理的に構築されるべきで、感傷の入り込む余地などない。
「馬鹿げてる。そんなもの、届くわけがないだろう。ただの自己満足だ」
冷ややかに言い放つと、陽菜は少しだけ目を伏せたが、すぐにまた顔を上げた。その瞳は、不思議な光を湛えていた。まるで、俺の知らない世界の法則を、彼女だけが知っているかのように。
「届くよ。きっと。だって、信じてるから」
彼女はそう言って、悪戯っぽく片目をつぶった。夕陽が彼女の輪郭を黄金色に縁取り、風に揺れる髪がきらきらと光の粒子を撒き散らす。その非現実的な光景に、俺は一瞬、言葉を失った。
この日を境に、俺の世界の歯車は、ほんの少しだけ、軋みを立てて狂い始めた。
***第二章 ファインダー越しの迷い***
七瀬陽菜という存在は、俺の論理的な世界にとってバグのようなものだった。「未来郵便」はクラスでちょっとしたブームになり、数人が面白がって手紙を投函していた。陽菜は誰にでも分け隔てなく微笑みかけ、その中心で太陽のように輝いている。俺は所属する写真部の活動にかこつけて、そんな彼女を遠巻きに観察し続けた。
大学推薦のために入った写真部。俺にとって写真は、構図、光、露出、その全てが計算で成り立つ芸術だった。感情などという曖昧なものを写し込むつもりはなかった。だが、ファインダー越しに陽菜を捉えるたび、俺の計算は狂わされた。不意に見せる寂しげな横顔、友人と笑い合う時の屈託のなさ、窓の外を眺める瞳に宿る、どこか遠い場所への憧憬。彼女の一瞬一瞬が、俺の構築したフレームをいとも簡単に壊していく。
「相沢くんの写真、なんだか冷たいね」
一度、彼女にそう言われたことがある。
「正確なんだと思う。光も、形も。でも、体温が感じられない」
痛いところを突かれた気がした。俺は反論できなかった。
文化祭が近づき、写真部は「一瞬の記憶」というテーマで展示を行うことになった。俺は金賞を狙っていた。そのためには、誰もが息をのむような一枚が必要だ。俺は、陽菜にモデルを頼んだ。
「私でいいの?」
「君がいい」
理由は自分でもよく分からなかった。ただ、彼女の中に潜む、俺の知らない「何か」を暴きたかったのかもしれない。
撮影中、陽菜は「相沢くんも未来郵便、書いてみない?」と唐突に言った。
「俺には書くことなんかない。未来の自分に伝えたい感傷的なメッセージなど持ち合わせていない」
「じゃあ、質問でもいいんだよ。一年後の自分に、聞いてみたいこと」
聞いてみたいこと? 俺は考え込んだ。成績、進路、全て計画通りに進んでいる。問い質すべき不確定要素はない。そう思ったはずなのに、心の奥底で何かがざわめいた。効率と実績を積み上げるだけのこの日常は、本当に「正しい」のだろうか。
陽菜に押し切られる形で、俺は一枚の便箋に向き合った。そして、戸惑いながらペンを走らせた。
『一年後の自分へ。お前は、今、笑えているか?』
それは、俺らしくない、ひどく感傷的で、答えのない問いだった。俺はその手紙を、あの錆びたポストに投函した。鉄の冷たい感触が、指先に妙な熱を残した。
***第三章 一年前からの手紙***
文化祭を数日後に控えた日、陽菜は校門の前で倒れた。
サイレンの音が、放課後の喧騒を切り裂いて遠ざかっていく。俺は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
陽菜は入院した。病室に見舞いに行くと、彼女は窓の外を静かに眺めていた。顔色は紙のように白く、いつも太陽のようだった笑顔は、今は儚げな三日月のように微かに浮かんでいるだけだった。
「ごめんね、文化祭、出られなくなっちゃった」
「いいんだ、そんなことは」
言葉がうまく出てこない。俺の知る世界では、原因があれば結果がある。だが、彼女のこの現実は、あまりに理不尽で、どんな数式を当てはめても答えが出なかった。
数日後、俺は陽菜の親友だという女子生徒に呼び出された。彼女は泣き腫らした目で、震える声で真実を語り始めた。その内容は、俺の価値観を根底から、容赦なく破壊するものだった。
「未来郵便はね、陽菜が始めたんじゃないの。一年前に…同じ病気で亡くなった、陽菜のお姉さんが始めたことなの」
陽菜には、双子の姉がいた。彼女もまた、重い心臓の病を患っていた。姉は、自分が長く生きられないことを悟り、遺される陽菜のために、来るはずのない未来からの手紙を書き溜めていたのだという。
「『一年後の陽菜へ』って。私が預かって、毎週こっそりあのポストに入れてた。陽菜が、未来に希望を持てるようにって…」
あのポストは、未来へ手紙を送るためのものではなかった。
過去から届く、死者からの愛を受け取るための、特別な郵便受けだったのだ。
陽菜が言っていた「信じてるから届く」という言葉の意味が、雷に打たれたように俺の脳を貫いた。彼女は、姉からの手紙が届くことを信じていた。そして、姉の死という絶望的な現実と向き合いながら、自分もまた、誰かの未来を少しでも明るくしたいと願ったのだ。クラスメイトに未来郵便を勧めたのは、姉が自分にしてくれたように、誰かの心をそっと支えたかったから。彼女自身が、もう自分には一年後の未来がないかもしれないと、どこかで分かっていながら。
俺が非効率で無意味だと切り捨てた陽菜の行動は、死の淵に立ちながら、それでも他者と未来を想う、途方もなく切実で、尊い祈りそのものだった。
俺は自分の傲慢さと愚かさに打ちのめされた。論理や効率という物差しで、人の心の何を測ることができただろう。俺が見ていたのは、陽菜という存在の、ほんの上辺だけだった。
***第四章 君が遺した彩り***
病室のドアを、今度は迷わずに開けた。ベッドの上の陽菜は、前よりもずっと痩せて見えた。俺は、文化祭に出すはずだった彼女の写真を差し出した。
夏の光の中で、ひまわりのように笑う陽菜。図書室の窓辺で、本に落ちる光と戯れる陽菜。何気ない日常の中の、輝くような生命の断片。
「…きれい。私、こんな顔して笑ってたんだ」
陽菜は、一枚一枚を愛おしそうに指でなぞり、ふっと息をついた。
「ありがとう、相沢くん。私の生きてた証、ちゃんと残してくれたんだね」
その言葉は、どんな賞賛よりも深く、俺の胸に突き刺さった。俺はただ、自分の作品のために彼女を利用しただけだったのに。
「これを、読んでくれないか」
俺はポケットから、自分が投函した「未来郵便」を取り出して彼女に渡した。それは先日、親友だという彼女から、こっそり返してもらったものだ。
陽菜は、俺の拙い文字で書かれた問いを、ゆっくりと目で追った。
『一年後の自分へ。お前は、今、笑えているか?』
読み終えた彼女は、静かに顔を上げて、俺をまっすぐに見つめた。
「正しいかどうかなんて、誰にも分からないよ。でもね、相沢くん。そうやって、自分の心に問いかけることができるようになった君は、もう大丈夫」
その声は弱々しかったが、確かな温かみを持っていた。
「君のファインダーは、もう冷たくない。ちゃんと、人の心の温度を写せるよ」
その冬、七瀬陽菜は、姉の待つ場所へと旅立った。
季節が巡り、桜が舞い散る春が来た。俺は、あの錆びついたポストの前に立っていた。
ポストには、真新しい手紙が数通、投函されていた。去年、陽菜に誘われて未来郵便を書いたクラスメイトたちが、一年後の今日、過去の自分からの手紙を受け取りに来たのだ。陽菜が遺した小さな優しさは、確かに未来へと繋がっていた。
俺はカメラを構える。でも、シャッターは切らなかった。
ファインダーという四角い世界を覗かなくても、もう世界は色鮮やかに見えた。風の匂い、光の柔らかさ、遠くで聞こえる生徒たちの笑い声。そのすべてが、愛おしい。
陽菜が教えてくれた。世界は、効率や論理だけでは測れない、無数の感情の彩りで満ちている。儚く、不確かで、だからこそ、かけがえのない一瞬一瞬で出来ている。
俺は空を見上げた。涙は出なかった。ただ、陽菜の笑顔が心に浮かぶ。
ありがとう、七瀬。君がいたから、俺の世界は色づき始めた。
俺は、自分の足で、ゆっくりと歩き出す。もう地図も計画もいらない。心に響くものを、ただ信じて。それが、彼女が俺に遺してくれた、たった一つの道しるべだった。
クロノスの郵便受け
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