夜明けのページの最初の行

夜明けのページの最初の行

0
文字サイズ:

***第一章 埃をかぶった時間と迷子の言葉***

神保町の裏路地で、僕、水上健太が営む「時雨堂書店」は、時間そのものが埃をかぶって眠っているような場所だった。古書のインクと紙の乾いた匂いが満ちる空間で、僕は背表紙の向こう側に広がる過ぎ去った物語にだけ心を許していた。現実の人間関係は、僕にとってインクが滲んで読めなくなった手紙のようなもの。距離の取り方が分からず、ただ遠ざけることしかできなかった。

両親を事故で亡くしたのは、僕が十歳の夏。父と交わした「次の日曜、一緒に本を作ろう」という約束は、果たされないまま宙に浮いている。あの日から、僕の時間は止まったままだった。古書店主になったのは、必然だったのかもしれない。過去の中にしか、安らぎを見出せなかったから。

そんな静寂を破るように、その少女は現れた。

からん、とドアベルが乾いた音を立てる。午後の柔らかな光を背負って入ってきたのは、小学校中学年くらいだろうか、白いワンピースを着た少女だった。陽の光を吸い込んで淡く輝くような髪が、店内の薄闇に浮き上がって見えた。

「いらっしゃい」
我ながら、錆びついた蝶番のような声だと思った。少女は物怖じする様子もなく、きょろきょろと店内を見回すと、真っ直ぐに僕のいるカウンターへやってきた。

「あの、本を探しているんです」
鈴が鳴るような、澄んだ声だった。
「どんなご本かな。作家名か、タイトルは?」
「それが、分からないんです」
少女は困ったように首を傾げた。その仕草には、子供らしいあどけなさと、どこか達観したような不思議な落ち着きが同居していた。
「でも、とても大切な本なんです。まだ、ここにはないかもしれないんですけど」

僕は眉をひそめた。「まだ、ここにはない本?」
「はい。まだ書かれていない本、なんです」

突拍子もない言葉に、僕は思考を停止させた。悪戯だろうか。だが、少女の瞳は真剣そのものだった。その黒曜石のような瞳に見つめられると、まるで心の奥底まで見透かされているような気分になる。

「……お嬢さん、うちは古本屋だ。未来の本は扱ってないよ」
できるだけ穏やかに言ったつもりだが、声は少し尖ってしまったかもしれない。少女は、しかし、がっかりした様子も見せずに、にこりと微笑んだ。

「大丈夫です。いつか入荷すると思うので。また来ますね」

そう言うと、彼女はぺこりとお辞儀をして、再びドアベルを鳴らしながら光の中へ消えていった。
あとに残されたのは、午後の埃をきらきらと舞わせる光の筋と、僕の心に投げ込まれた小さな、しかし確かに重い、謎の石ころだけだった。
「まだ、書かれていない本……」
僕はその言葉を、まるで知らない国の呪文のように、静かに繰り返した。

***第二章 インクの染みと小さな足跡***

翌日も、その次の日も、少女――ヒカリと名乗った――は、同じ時間にやってきた。彼女は決まって「まだ書かれていない本、入荷しましたか?」と尋ね、僕が首を横に振ると、少しだけ残念そうに眉を下げてから、店内のどこか隅の椅子にちょこんと座り、僕が選んでやった絵本や児童文学を熱心に読んだ。

彼女の存在は、僕の止まった時間に少しずつ波紋を広げていった。最初は煩わしささえ感じていたドアベルの音が、いつしか待ち遠しいものに変わっていた。ヒカリは多くのことを語らなかったが、彼女の静かな眼差しや、物語に夢中になる横顔を見ていると、僕の心の硬い殻が、一枚、また一枚と剥がれていくような気がした。

ある雨の日、ヒカリは珍しく俯きがちに店に入ってきた。ワンピースの裾が濡れている。
「今日は冷えるだろう。ココアでも飲むかい?」
自分でも驚くほど自然に、言葉が出ていた。僕が店の奥の小さなキッチンでお湯を沸かしていると、ヒカリがとてとてと後をついてきた。

「店長さんは、どうして本屋さんになったんですか?」
湯気の向こうで、ヒカリが尋ねた。
僕は手を止め、遠い日を見つめるように目を細めた。「……昔、約束したんだ。父と、一緒に本を作るって」
それは、誰にも話したことのない、心の最も柔らかい場所にある記憶だった。父の大きな手、インクの匂い、週末を心待ちにしていた幼い自分の高揚感。そして、すべてが奪われたあの日の、サイレンの音。

「その本は、作れたんですか?」
「いや……」僕は首を振った。「作れなかった。父さんが、いなくなってしまったから」
沈黙が落ちた。雨音が、店の古い屋根を優しく叩いている。
「そっか……」
ヒカリは小さな声で呟くと、僕の淹れたココアを両手で包み込むように持って、ふーふーと息を吹きかけた。その小さな背中が、やけに寂しげに見えた。

その日を境に、僕とヒカリの間には、言葉にならない絆のようなものが生まれたように思う。彼女は相変わらず「まだ書かれていない本」を探し続けたが、その問いかけは、僕たちの間では挨拶のようなものになっていた。

僕はいつしか、ヒカリのために特別な本を探すようになっていた。父と作るはずだったような、手作りの温かみがある本。世界に一冊しかないような、特別な物語。だが、どれだけ探しても、ヒカリが「これです」と言う本は見つからなかった。

そして、夏の終わりの蝉時雨が店に響くようになった頃、ヒカリは、ぱったりと姿を見せなくなった。
一日、二日と過ぎ、ドアベルが鳴るたびに心臓が跳ねたが、そこにいたのは見知らぬ客ばかりだった。一週間が経った時、僕は言いようのない不安に駆られていた。店の中にぽっかりと空いた穴。それはヒカリがいつも座っていた椅子の形をしていた。

***第三章 まだ書かれていない本の在処***

手がかりは、ほとんどなかった。彼女が最後に店に来た日、椅子の上に置き忘れていった、小さな木彫りのフクロウのお守りだけが、彼女の存在を証明していた。裏には「光」という文字と、判子で押したような「桜山」という名前が微かに読み取れた。

僕は衝動的にシャッターを下ろすと、震える手でスマートフォンを取り出し、「桜山」という名字と、この近辺の地域情報を組み合わせて検索をかけた。いくつかの候補の中に、「桜山総合病院」という名前を見つけた時、嫌な予感が胸をざわつかせた。

病院の総合受付で、僕はしどろもどろになりながらヒカリのことを尋ねた。木彫りのフクロウを見せると、受付の女性は何かを察したように、僕を小児科病棟のナースステーションへと案内した。

ガラス張りの向こう、いくつもの計器に繋がれ、白いベッドで静かに眠っている少女がいた。ヒカリだった。いつもの白いワンピースではなく、青白い病衣をまとった彼女は、僕の知っているヒカリよりもずっと小さく、儚げに見えた。

「あの子の、ご関係の方ですか?」
背後から、穏やかな女性の声がした。振り返ると、疲れた表情の中に、確かな気品を漂わせた女性が立っていた。彼女の目元は、どことなくヒカリに似ていた。

「時雨堂書店の、水上と申します。ヒカリちゃんが、最近店に来ないので……」
僕がそう言うと、女性――ヒカリの母親だという――は驚いたように目を見開き、それから深々と頭を下げた。
「あなたが、水上さん……。あの子がいつも話していた古本屋の。申し訳ありません、ご迷惑をおかけして」

彼女に案内されたのは、病院の小さな面談室だった。そこで聞かされた事実は、僕の世界を根底から揺るがすものだった。

ヒカリは、生まれた時から心臓に重い病を抱えていた。そして――彼女の祖父、桜山義一さんは、二十五年前、僕の両親が亡くなったあの雨の日の交通事故の、加害者だった。

「父は……事故の後、ずっと自分を責め続けていました」
母親は、震える声で語った。
「たった一人残されたあなたのことを、ずっと気にかけていました。何度も手紙を書こうとして、でも、どんな言葉で謝罪すればいいのか分からず、便箋を前にしたまま何時間も動けなくなっていたそうです。結局、父はあなたに謝罪の言葉を伝えられないまま、五年前に亡くなりました」

僕は言葉を失った。頭の中で、バラバラだったピースが、恐ろしいほどの速度で組み上がっていく。

「ヒカリは、そんな祖父の姿をずっと見て育ちました。あの子は、祖父の果たせなかった想いを、代わりに届けようとしていたんです。あなたに……水上さんに会って、祖父の代わりに謝りたかった。そして、あなたが過去に縛られず、自分の新しい物語を生きてくれることを、心から願っていたんです」

まだ、書かれていない本。
それは、ヒカリの祖父が書けなかった謝罪の手紙。
そして、僕自身が書くべき、未来の物語。

ヒカリは、僕がその本を「書ける」ようになるのを、ずっと待っていたのだ。あの小さな体で、大きな病と闘いながら、僕という見ず知らずの人間のために。

涙が、止まらなかった。それは悲しみだけではない、悔恨でもない、もっと温かくて、胸が張り裂けそうになるほどの、激しい感情の奔流だった。二十五年もの間、僕を縛り付けていた鎖が、音を立てて砕けていくのが分かった。

***第四章 夜明けのページの最初の行***

僕は再び、ヒカリの眠る病室の前に立った。ガラス越しに見える寝顔は、安らかだった。彼女は、自分の役目を終えたとでも言うように、静かに眠っている。

母親に許可をもらい、僕はそっと病室に入った。消毒液の匂いが鼻をつく。僕はヒカリの枕元に、持ってきた一冊の真新しいノートと、父の形見である万年筆を置いた。

「ヒカリちゃん」
眠る彼女に、静かに語りかける。
「君が探していた本は、ここにある。これから、僕が書いていく。だから、安心していいよ。君のおじいさんの想いも、君の想いも、僕がちゃんと受け取ったから」

言葉は、祈りになった。ありがとう、と何度も心の中で繰り返した。

数年の月日が流れた。
「時雨堂書店」は、以前の静寂が嘘のように、いつも子供たちの笑い声で満たされている。僕は店の片隅に小さなスペースを作り、子供たちに物語の読み聞かせをするようになった。僕が自ら書いた、物語だ。

それは、決して悲しいだけの話ではない。人と人が出会い、想いが繋がり、小さな光が大きな希望を生む物語。僕がヒカリから教わった、すべてのことを詰め込んだ物語だ。

ある晴れた午後、僕は店のカウンターで、完成したばかりの一冊の本を手にしていた。自分で製本した、手作りの本だ。表紙には、拙い文字でこう記した。

『ヒカリが待っていた本』

僕はその本を胸に抱き、店の窓から空を見上げた。空はどこまでも青く、澄み渡っている。あの夏の日、僕の前に現れた少女のような、眩しい光が地上に降り注いでいた。

ヒカリが今、どこで何をしているのか、僕は知らない。だが、確信していることがある。彼女が灯してくれた光は、僕の中で決して消えることはない。僕が新しい物語を紡ぎ続ける限り、彼女は僕の物語の中で、永遠に生き続けるのだ。

僕はノートの新しいページを開き、万年筆を握る。夜明けのページの最初の行に、どんな言葉を記そうか。僕の時間は、今、確かに未来へ向かって動き出していた。

TOPへ戻る