路地裏の突き当たりに、その店はひっそりとあった。「時任(ときとう)時計店」と古びた真鍮のプレートに刻まれている。埃をかぶったショーウィンドウには、ねじが外れた柱時計や、針の止まった腕時計が、まるで墓標のように並べられていた。
この店の主、時任はただの時計師ではない。彼は「時間」を修理する。それも、人が心の中にしまい込んだ、壊れてしまった「思い出」という名の時間を。
ある雨の日の午後、店のドアベルがちりん、と寂しげな音を立てた。入ってきたのは、セーラー服姿の少女だった。固く結んだ唇に、意志の強さと、隠しきれない悲しみが滲んでいる。
「あの……ここなら、どんな時計でも直せるって、聞きました」
少女がカウンターに置いたのは、掌に収まるほどの小さな砂時計だった。ガラスは曇り、中の金色の砂は、逆さにしても一粒たりとも落ちてこない。まるで時が凍り付いてしまったかのようだ。
「祖父の形見なんです。でも、壊れちゃって……」
時任はルーペを手に取ると、その砂時計を静かに覗き込んだ。彼の目には、単なる砂粒ではない、微かな光の残像が見える。夏祭りの夜店の灯り、りんご飴の艶、打ち上げ花火の火花。だが、それらは全て色褪せ、バラバラに砕けていた。
「この砂時計は、あなたとお祖父様の『夏祭りの一日』ですね。記憶の歯車が噛み合わず、流れを失っている。修理には、失われた部品が必要です」
「部品……?」
「ええ。三つあります。一つは『神社の石段に染みた、りんご飴の香り』。二つ目は『川面に映った、線香花火の最後の火花』。そして三つ目は……『お祖父様が口ずさんでいた、忘れてしまった鼻歌』です」
少女――陽菜(ひな)は目を丸くした。馬鹿げている、と言いたげな顔だ。しかし、時任の真摯な眼差しに、彼女は何かを賭けてみる気になった。
二人の奇妙な冒険が始まった。
最初の部品を探しに、陽菜は時任と共に、かつて祖父と住んでいた古い町を訪れた。神社はまだあったが、夏祭りの時期でもなく、りんご飴の屋台などあるはずもない。途方に暮れる陽菜の手を、時任は引き、一軒の古びた駄菓子屋へ連れて行った。
「ここの水飴は、昔ながらの製法でな。祭りのりんご飴も、ここのを使っていたそうだ」
店主の老婆から買った水飴の蓋を開けると、ふわりと懐かしい甘い香りが立ち上った。その瞬間、陽菜の脳裏に、祖父の大きな手と、べたべたになった自分の指が鮮やかに蘇る。時任が取り出した小瓶に、その香りがすうっと吸い込まれていった。
二つ目の部品は難航した。祖父が好きだった線香花火は、職人の引退でもう作られていないという。二人は何日もかけて噂をたどり、郊外で隠居生活を送るその職人を探し当てた。職人は頑固だったが、陽菜の必死の願いに心を動かされ、最後の火薬と和紙を使って、たった一本だけ、あの日の花火を再現してくれた。
漆黒の川面に、小さな火の玉が灯る。ぱち、ぱち、と儚い音を立て、松葉のように繊細な火花が散った。水面に映った最後の火花が消える瞬間、時任が掲げたプリズムに、その光が淡い虹色となって宿った。
残るは最後の部品、祖父の鼻歌だ。しかし、陽菜は何度思い出そうとしても、そのメロディを思い出せない。記憶の扉は固く閉ざされたままだった。
「もう、無理かも……」
うつむく陽菜に、時任は静かに言った。
「思い出せないんじゃない。思い出すのが、怖いだけだ」
彼の言葉に、陽菜ははっと顔を上げた。そうだ、怖いのだ。全部思い出してしまったら、祖父がもうどこにもいないという事実を、突きつけられる気がして。
時任は陽菜を、祖父がよく通っていたというジャズ喫茶に連れて行った。膨大なレコードのコレクションから、彼は一枚のアルバムを抜き出す。
「お祖父様が好きだったというトランぺッターだ。この三曲目……聴いてみてくれないか」
ターンテーブルに乗せられたレコードから、掠れたノイズと共に、優しくも切ないトランペットの旋律が流れ出した。そのメロディを聴いた途端、陽菜の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
これだ。この歌だ。夏祭りの帰り道、疲れて歩けなくなった自分を背負い、祖父が口ずさんでくれた鼻歌。優しくて、温かくて、世界で一番安心するメロディ。
「ありがとう……おじいちゃん……」
陽菜の涙声の歌声は、光の旋律となって、時任が用意したオルゴールの櫛歯に刻み込まれていった。
全ての部品が揃った。
時任時計店の工房で、修理が始まる。小瓶の香りが解き放たれ、プリズムの光が注がれ、オルゴールのメロディが奏でられる。三つの部品は金色の粒子となり、渦を巻きながら、砂時計の中へと吸い込まれていく。やがて、曇っていたガラスは水晶のように澄み渡り、固まっていた砂は、再び輝きを取り戻した。
時任は完成した砂時計を、陽菜に手渡した。
「さあ、時間を動かしてごらん」
陽菜がおそるおそる砂時計をひっくり返す。
サラサラサラ……。
金色の砂が、静かに流れ始めた。そして、信じられないことが起きた。落ちていく砂粒の一つ一つが、陽菜の心の中に、鮮やかな情景を映し出したのだ。
りんご飴を頬張る自分の笑顔。祖父と二人で見た、空いっぱいの打ち上げ花火。線香花火の儚い光。そして、自分を背負い、優しい鼻歌を歌ってくれる、祖父の温かい背中。
それは、ただの記憶の再生ではなかった。忘れていた感触、香り、音、そして愛情の全てが、陽菜の心を温かく満たしていく。涙が頬を伝ったが、それはもう悲しみの涙ではなかった。
「おじいちゃんは、いたんだ。ちゃんと、ここに……」
陽菜は砂時計を胸に抱きしめ、何度も頷いた。
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。夕日が差し込む店内で、時任は静かに微笑んだ。
「時間は元には戻せない。ですが、その輝きは、いつだって取り戻せるんですよ」
金色の砂は、これからも陽菜の心の中で、温かい光を放ちながら、優しく流れ続けるだろう。何度でも、何度でも。
追憶の砂時計
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