潮の香りが染みついた時計修理店の片隅で、橘響(たちばな ひびき)は息を殺してムーブメントと向き合っていた。カチ、カチ、と規則正しく時を刻む小さな心臓の音だけが、彼の世界のすべてだった。かつて彼の指は、象牙の鍵盤の上で魔法を紡いだが、今では冷たい金属の歯車を相手にするだけだ。三年前のあの事故以来、彼の右耳は美しい倍音の世界を永遠に閉ざしてしまった。
「ごめんください」
ガラス戸の向こうから聞こえた声に、響はゆっくりと顔を上げた。そこに立っていたのは、有馬咲(ありま さき)。彼が「師匠」と呼んだ唯一の人物、伝説の調律師・有馬弦一郎の娘だった。
「響さん、お願いがあるの」
咲が切り出したのは、取り壊しが決まった海辺の市民ホールに残された一台のピアノの話だった。師匠が最後に魂を注ぎ込んだグランドピアノ、『エオリア』。師匠の死後、そのピアノは気難しい貴婦人のように心を閉ざし、どんな名手も、どんな調律師も、その本来の音色を引き出すことはできなかったという。
「父が言っていたわ。『いつかこのピアノが沈黙したら、響を呼べ。あいつなら、エオリアの心を聴ける』って」
響は自嘲気味に笑い、聞こえにくくなった右耳を無意識に押さえた。「俺にはもう、聴こえませんよ。ピアノの心なんて」。冷たく突き放す言葉とは裏腹に、彼の胸の奥で、錆びついた弦が微かに震えるのを感じていた。
翌日、響は吸い寄せられるように古い市民ホールを訪れていた。ステージの中央、スポットライトの光の粒子がきらめく中に、『エオリア』は静かに佇んでいた。ホコリの薄衣をまとった漆黒のボディは、まるで巨大な生き物の寝息のようだ。
響は恐る恐る鍵盤に指を伸ばした。ひび割れた象牙の冷たさが指先から伝わる。一つ、音を鳴らしてみる。ポーン、と放たれた音は、どこか虚ろで、魂が抜け落ちたようなくぐもった響きだった。
「聴こえるかい、響。ピアノは木と金属と羊毛の塊じゃない。記憶と感情の集合体なんだ」
脳裏に、師匠のしわがれた声が蘇る。咲のまっすぐな瞳が、師匠の最後の言葉が、彼の心を縛り付ける鎖を揺さぶっていた。
「やらせてください。……これが、最後の仕事です」
響の孤独な戦いが始まった。チューニングハンマーを手に、彼は来る日も来る日もエオリアと向き合った。しかし、現実はあまりに過酷だった。左耳で捉えた基音に対し、右耳が捉えるべき繊細な倍音の「うなり」が、彼にはほとんど聞こえない。焦れば焦るほど、音は濁り、指先は震えた。完璧な音程を求めるあまり、彼はエオリアをただの音の出る機械として扱おうとしていた。
「くそっ……!」
苛立ちに任せてハンマーを床に投げつけた夜、彼はステージに座り込んだ。もう駄目だ。師匠の期待にも、咲の想いにも応えられない。諦めが心を黒く塗りつぶそうとした、その時だった。
『耳だけで聴こうとするな、響。心で聴け。ピアノの木の香り、弦の震え、鍵盤の重み……。すべてがお前の聴覚になるんだ』
師匠がかつて、何度も繰り返した言葉。それは、若く才能に驕っていた彼が、聞き流していた言葉だった。
響はゆっくりと立ち上がり、エオリアの前に戻ると、そっと目を閉じた。聴覚への執着を、捨てた。意識を指先に、全身の皮膚に集中させる。
ハンマーでピンを回し、弦を弾く。指先に、チリチリと微かな振動が走った。それはまるで、ピアノの微細な感情のさざ波のようだった。響はさらに深く潜っていく。古い木材が放つ甘く乾いた香り、フェルトが弦を打つ柔らかな感触、響板が震え、ホール全体の空気を揺らす壮大な呼吸。五感のすべてが、巨大な聴覚器官となっていく。
その瞬間、彼の心の中に、ふっと一つのメロディが流れ込んできた。それは師匠が調律を終えた後、満足そうに口ずさんでいた、優しくもどこか切ない、誰も知らない旋律だった。
ああ、そうか。師匠はここにいたのか。このピアノの中に、その魂の残響を遺していたのか。
涙が頬を伝った。それは絶望の涙ではなかった。ようやく再会できたことへの、歓喜の涙だった。響はもう迷わなかった。聴こえない右耳の代わりに、心で師匠の歌を聴きながら、一音一音、エオリアの魂を呼び覚ましていった。
一週間後、ホールにはささやかな演奏会のために人々が集まっていた。招かれた若きピアニストが、緊張した面持ちでエオリアの前に座る。咲が、固唾をのんで響を見つめていた。
ピアニストの指が鍵盤に触れた、その瞬間。
ホールを満たしたのは、単に正確なだけの音ではなかった。それは、冬の陽だまりのような温かさと、深い森の静寂、そして、寄せては返す波のような優しい哀愁を湛えた音色だった。一音一音が、聴く者の心の最も柔らかい場所に触れ、忘れかけていた記憶を、言葉にならない感情を呼び覚ましていく。
演奏が終わった時、一瞬の静寂の後、ホールは割れんばかりの拍手に包まれた。すすり泣く声も聞こえる。咲は、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、響の前に駆け寄った。
「ありがとう……!父の音がする……父が、ここにいる……!」
鳴りやまない拍手と人々の感動の渦の中で、響は静かに目を閉じた。ピアノが奏でた最後の残響の中に、彼は確かに聴いたのだ。
『よくやったな、響』
懐かしい、師匠の優しい声を。
失った聴力は、もう戻らないだろう。だが、彼は知っていた。自分は耳で音を聴く能力と引き換えに、心で世界を聴くという、何物にも代えがたい力を手に入れたのだと。
響は、相棒であるチューニングハンマーをそっとケースにしまった。その顔には、時計の針を修理していた頃の翳りはもうない。まるで夜明けの空のように、晴れやかな光が満ちていた。彼の新しい人生の序曲が、今、静かに奏でられようとしていた。
残響の調律師
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