クロノスの心臓

クロノスの心臓

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港町コルマールは、錆びついた時間の中に取り残されたような場所だった。潮風は建物の壁から色彩を奪い、人々の顔からは活気を削ぎ落としていく。時計職人のレオは、そんな町の片隅で、止まってしまった時計の針を動かすだけの単調な日々を送っていた。彼は、かつて「時を操った」と伝説に謳われた一族の末裔だったが、その血をむしろ呪わしく思っていた。

ある鉛色の空が広がる午後、彼の工房のドアベルが、か細い音を立てた。そこに立っていたのは、エミリアと名乗る少女だった。大きな瞳とは対照的に、その顔色は透けるように白い。
「あの、本当なんですよね? ここの時計屋さんは、時間を止められるって」
レオは工具から目を離さずに答えた。「おとぎ話だ。俺が直すのは、ただの機械だよ」
「お願いします」。少女は小さな手のひらをカウンターに置いた。「お父さんが、遠い戦争から帰ってくるまででいいんです。私の時間を、止めてください」
そのまっすぐな瞳に、レオは初めて胸の奥がざわつくのを感じたが、首を横に振って少女を帰した。

数日後、レオは市場で人だかりを見つけた。中心で倒れていたのはエミリアだった。病院に付き添ったレオは、医師から衝撃的な事実を告げられる。少女は重い病を患い、残された時間は幾ばくもない、と。
工房に逃げ帰ったレオは、自らの無力さに拳を壁に打ち付けた。その時、棚の奥で埃をかぶっていた木箱が床に落ちる。中から現れたのは、羊皮紙に描かれた古びた設計図だった。タイトルには、こう記されていた。
――クロノスの心臓。
それは、彼が忌み嫌ってきた一族の伝説そのものだった。単なる機械ではない。生命と時間を繋ぐ、禁断の装置。レオは震える手で設計図を広げた。エミリアの「時間を止めて」という悲痛な願いが、脳内で木霊していた。
「おとぎ話、か……」。レオは呟いた。「なら、本当にしてやる」
その夜、コルマールの時計塔の明かりが、久しぶりに朝まで消えることはなかった。

「クロノスの心臓」の製作は、常軌を逸していた。必要な部品は三つ。霧深い山頂で「月光を吸う石」、活火山の深奥に眠る「不滅の歯車」、そして嵐の海の底でしか採れない「深淵のオイル」。
レオは店を閉じ、旅に出た。最初に訪れた山の集落で、彼は一族の老婆から試練を課された。「一晩で、あの壊れた村の時計台を動かしてみせな。さすれば石をくれてやろう」。レオは持てる技術のすべてを注ぎ込み、夜明けと共に、止まっていた長針を動かしてみせた。老婆は「お前の目には、死んだ息子の面影がある」と呟き、乳白色に輝く石を彼に手渡した。

次に、元探検家だという陽気な老人の噂を頼りに、溶岩台地へと向かった。老人はレオの目的を聞くと、面白そうに笑い、古びた地図を広げた。「わしにはもう無理だが、お前さんのような若い冒険家が行くというなら止めはせんよ」。地図が示す洞窟の奥で、レオは灼熱の空気の中、黒曜石のように鈍く光る歯車を発見した。

最後の部品、「深淵のオイル」が最も困難だった。誰もが嵐の海へ出ることを拒んだが、コルマールで顔見知りだった無口な船乗りだけが「あんたにゃ貸しがある」と、小さな船を出してくれた。荒れ狂う波と風に何度も転覆しかけながら、二人は奇跡的に目的の海域に到達し、特殊な籠で海底から瑠璃色のオイルを採取することに成功した。
港に戻ったレオは、船乗りに深々と頭を下げた。彼はこの旅で、人を信じる温かさを知った。心臓の歯車が、少しずつ噛み合っていくような感覚だった。

全ての部品を手に、レオは工房に籠った。窓の外で季節が移ろうのも忘れ、彼はひたすらに時計を組み上げていく。エミリアの容態が悪化したという知らせが、彼の心を焦らせた。
そして、ついにその時は来た。銀色の懐中時計、「クロノスの心臓」が完成したのだ。それはまるで、銀河を閉じ込めたかのように静謐な輝きを放っていた。レオは安堵のため息をつき、設計図の最後のページをめくった。そこに書かれていたのは、残酷な一行だった。
『――この時計は、術者の生命時間を燃料とし、対象者の生体時間を凍結させる』
時間を止めるのではない。命の移し替え。それが「クロノスの心臓」の真実だった。レオはその場に崩れ落ちた。自分の命と引き換えに、少女を救う。そんな覚悟が、自分にあるのか。
彼の脳裏に、旅で出会った人々の顔が浮かんだ。老婆の優しい眼差し、老人の屈託のない笑顔、船乗りの信頼に満ちた背中。そして何より、エミリアのまっすぐな瞳。
「そうか……」。レオは静かに立ち上がった。「俺の錆びついた時間は、このためにあったのかもしれない」

彼は、完成した時計を手にエミリアの病室を訪れた。眠る彼女の顔は、さらに白く、儚げだった。レオはそっと彼女の冷たい手をとり、その手のひらに「クロノスの心臓」を握らせた。
「エミリア。君のお父さんは、もうすぐ帰ってくる」
彼は時計の竜頭を、静かに引き上げた。カチリ、と世界で最も優しい音が響く。レオの黒かった髪に、白いものが急速に混じっていく。肌は潤いを失い、深い皺が刻まれていく。彼は自らの時間が流れ出ていくのを感じながら、穏やかに微笑んだ。
時計の針がピタリと止まる。それと同時に、エミリアの苦しげだった呼吸が、すうっと穏やかな寝息に変わった。彼女の頬に、微かな血の気が戻っていた。

数年の月日が流れた。
港町コルマールには、昔の活気が戻っていた。帰還した兵士を乗せた船が着くたびに、歓声が上がる。その人垣の中に、すっかり元気になったエミリアと、日に焼けた父親が手を繋いで歩いていた。
エミリアの胸元には、銀色の懐中時計が下がっている。その針は、あの日から一秒も動いていない。しかし、彼女の時間は、確かに未来へと進んでいた。
少女は時折、今はもう主のいない時計店があった場所を、愛おしそうに見つめる。そして胸の時計をそっと握りしめ、誰にも聞こえない声で囁くのだ。
「ありがとう、時計屋さん。私の時間は、あなたと一緒だよ」
その声は、春の優しい風に乗って、高く、高く、空に溶けていった。

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