星屑の調律

星屑の調律

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古い木の匂いと、微かな機械油の香りが混じり合う工房。壁一面の棚には、大小様々なオルゴールと、それらを修理するための精密な工具が整然と並んでいる。しかし、その主である健太の手は、意志とは裏腹に微かに震えていた。かつて「神の手」とまで呼ばれたその指先は、今や小さなネジを一つ掴むことさえ億劫になっていた。

「またか…」

独りごちた声は、埃の舞う静寂に虚しく溶ける。一年前に妻の小夜子に先立たれてから、この震えは酷くなる一方だった。職人としてのプライドが、音を立てて崩れていく。

窓辺には、一台のオルゴールが置かれていた。小夜子が亡くなる数日前、不意に床に落として壊してしまったものだ。健太が彼女のために作り、彼女が何よりも愛した「星屑のワルツ」を奏でる、世界に一つだけの宝物。それを修理することこそが、彼に残された最後の目的のはずだった。だが、震える手では、心臓部である櫛歯(くしば)の繊細な調律がどうしてもできない。歪んだ音を奏でるたびに、小夜子を永遠に失ってしまった現実を突きつけられるようで、健太は何度も蓋を閉じた。

そんなある日、工房のドアベルが澄んだ音を立てた。入ってきたのは、大きな瞳が印象的な若い女性だった。音大生だという彼女、美咲は、祖母の形見だという古いオルゴールを恐る恐る差し出した。

「どこへ持って行っても、修理できないと断られてしまって…。ここが最後の望みなんです」

健太が受け取ったオルゴールは、紛れもなく自分が若い頃に手がけたものだった。懐かしさと、今の自分への不甲斐なさが胸を突く。それでも、すがるような美咲の瞳を前に、断ることはできなかった。

修理は困難を極めた。健太の経験と知識は錆びついていない。だが、それを形にするための指が、言うことを聞かない。歯がゆさに唇を噛む健太の背後で、作業をじっと見ていた美咲が、そっと口を開いた。

「あの…そこの音、ほんの少しだけ、高い気がします」

健太は訝しげに顔を上げた。しかし、試しに美咲の言う通りに櫛歯を僅かに削ってみると、音が驚くほど澄んだものに変わった。彼女は絶対音感の持ち主だったのだ。

それから、不思議な共同作業が始まった。健太が震える手でヤスリを握り、美咲がその耳で音を導く。

「もう少し、柔らかく」「次は、風が抜けるような音に」

彼女の言葉は抽象的でありながら、健太にはその意味が手に取るようにわかった。長年の経験が、彼女の感性と共鳴する。健太の「手」と美咲の「耳」。二つの歯車が噛み合ったとき、止まっていた時間が再び動き出すような感覚があった。孤独だった工房に、穏やかな会話と、美しい音色が満ちていく。

数日後、美咲のオルゴールは完璧な音色を取り戻した。感謝の言葉を繰り返す美咲に、健太は初めて自分のことを話した。窓辺のオルゴールを指さし、妻の思い出と、どうしても修理できないもどかしさを打ち明けた。

すべてを聞き終えた美咲は、静かに頷くと、壊れたオルゴールの前に立った。

「健太さん。その音、私に聞かせてください」

健太がおそるおそるゼンマイを巻くと、工房に歪んだ不協和音が響き渡る。それは、楽しかった日々の記憶を嘲笑うかのような、悲しい響きだった。だが、美咲は目を閉じ、その一つ一つの音を記憶に刻むように聴き入っていた。

やがて彼女は工房の隅に置かれていた古いアップライトピアノの前に座ると、鍵盤に指を滑らせた。奏でられたのは、狂ったオルゴールの音階ではない。本来あるべき、清らかで、星の瞬きのように煌めく「星屑のワルツ」のメロディだった。

「この音です。あなたのオルゴールは、この音を奏でたがっています」

健太は、吸い寄せられるように作業台に戻った。美咲が奏でるピアノの音色を頼りに、震える手に全神経を集中させる。一音、また一音。彼のヤスリが櫛歯に触れるたび、オルゴールは本来の魂を取り戻していく。それはまるで、遠い昔に交わした小夜子との約束を、一つずつ果たしていくような神聖な時間だった。

そして、ついに最後の調律を終えたとき、工房は完璧な静寂に包まれた。健太がゆっくりとゼンマイを巻く。

チ、チ、チ…という小さな音の後、流れ出したのは、満天の星空をそのまま閉じ込めたかのような、優しく澄み切ったメロディだった。それは健太が小夜子に贈り、彼女が愛した、紛れもない「星屑のワルツ」。音色は壁に、天井に、そして健太の心に染み渡り、まるで小夜子が背後からそっと抱きしめてくれているような温もりが広がった。健太の頬を、熱い雫が静かに伝っていった。

「ありがとう…君は、私の耳になってくれた」

深々と頭を下げる健太に、美咲は穏やかに微笑んだ。

帰り際、健太はふと尋ねた。
「差し支えなければ、君のお祖母様のお名前を、教えてもらえないだろうか」

美咲は少し驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑って答えた。

「小夜子、といいます」

健太は息を呑んだ。若い頃、自分の妹に贈ったオルゴールが、巡り巡ってその孫娘である美咲に受け継がれ、今、自分の元へ帰ってきたのだ。そして、亡き妻と同じ名を持つ彼女が、妻との最後の思い出を繋いでくれた。

窓から差し込む夕陽が、美しく蘇った二つのオルゴールを黄金色に照らしていた。それは、時を超えて結ばれた温かい絆を、星屑の光が祝福しているかのようだった。

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