虹を紡ぐキャンバス

虹を紡ぐキャンバス

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世界から色彩が消えて、もう五十年になる。「大褪色(グレート・フェード)」と呼ばれるその現象は、ある朝、まるで神が悪戯をしたかのように、あらゆる色を世界から奪い去った。空も、森も、人の瞳も、すべてが濃淡の異なる灰色に塗り替えられた。人々は次第に色の記憶を失い、それに伴って、かつて色と結びついていたはずの強い感情さえも忘れていった。

そんな灰色の街の片隅で、老画家エルマンは孫娘のルナと暮らしていた。
「おじいちゃん、虹ってどんなもの?」
ある晩、ルナが尋ねた。彼女は色のない世界で生まれた子供だ。エルマンは皺くちゃの手で彼女の頭を撫でながら、記憶の底から言葉を紡いだ。
「虹かい? それはね、空にかかる七色の橋だよ。燃えるような赤、熟した果実の橙、陽だまりの黄色、若葉の緑、深い海の青、夜明け前の藍、そして高貴な紫……」
エルマインの瞳には、ルナには見えない色彩が鮮やかに映っていた。彼は、この世界で色を記憶している最後の世代だった。
「見てみたい……」
ルナの呟きは、エルマンの心の奥深くに眠っていた古い情熱に火をつけた。画家としての魂が、最後の仕事を見つけたと叫んでいた。

エルマンは屋根裏部屋から、古びた革の鞄と、一枚の真っ白なキャンバスを取り出した。鞄の中には、かつて彼が愛用した絵筆と、伝説を記した羊皮紙の地図が入っている。「世界の頂にある『プリズムの心臓』に、失われた色を捧げよ。さすれば世界は再び彩られる」――それは、誰もが忘れてしまったお伽話だった。
「ルナ、旅に出よう。本物の虹を、おまえに見せてやる」

二人の旅は、灰色の荒野を抜けることから始まった。エルマンは地図を頼りに、かつて「朱の渓谷」と呼ばれた場所を目指した。そこは、夕陽に染まると岩肌が燃えるように赤く輝いたという。
「見てごらん、ルナ。この岩の染みは、昔の赤色の名残だ」
エルマンが指差す先を、ルナは目を凝らして見つめた。ただの濃い灰色の染みにしか見えない。しかし、エルマンが語る「情熱」や「勇気」といった赤い感情の話を聞いているうちに、ルナの胸が不思議と熱くなった。
「なんだか、ドキドキする……」
その瞬間、エルマンの目には、岩の染みが微かに赤く発光したように見えた。

次に訪れたのは、「静寂の湖」の跡地だった。水は干上がり、ひび割れた湖底が広がっているだけだ。
「ここはね、空の青を映して、悲しいくらい静かで美しい場所だったんだ。青は、悲しみの色でもあるが、安らぎの色でもある」
エルマンは、若くして亡くした妻のことを思い出し、静かに涙を流した。ルナは何も言わず、そっと祖父の手に自分の小さな手を重ねた。その時、乾いた風が吹き抜け、ルナは祖父を思う「愛おしさ」で胸がいっぱいになった。エルマンの頬を伝う涙が、まるでサファイアのように青くきらめいた気がした。

数々の「色の記憶」が眠る場所を巡り、二人はついに世界の頂と呼ばれる険しい山脈にたどり着いた。吹雪が吹き荒れる中、エルマンは老体に鞭打ち、ルナの手を引いて神殿の奥へと進む。
そして、ついに見つけたのだ。「プリズムの心臓」を。
それは、人の背丈ほどもある巨大な水晶だった。しかし、お伽話とは違い、水晶はくすんだ灰色の塊で、何の力も感じられない。
「……そんな、はずは」
エルマンは膝から崩れ落ちた。希望が音を立てて砕けていく。旅の疲れと絶望が、彼の命の灯火を消そうとしていた。

その時だった。
「おじいちゃん、見て!」
ルナが指差す先で、水晶がほんのりと、ごく微かに光を放っていた。それは、この旅でルナが感じた「ドキドキ」や「愛おしさ」、そして今、祖父を失いたくないと願う「必死」な想いに呼応していた。
エルマンは悟った。プリズムの心臓は、失われた色を捧げるのではない。これから生まれる「感情」を捧げるのだ。
彼は最後の力を振り絞り、背負ってきたキャンバスを立てた。そして、鞄から絵筆を取り出す。絵の具はない。だが、彼には見えていた。パレットの上に溢れる、人生のすべての色彩が。

エルマンは描き始めた。
妻と出会った日の、胸躍るような「黄色」。
友と競い合った情熱の「赤」。
初めての子を腕に抱いた、穏やかな「緑」。
悲しみに暮れた日の、深い「青」。
そして、今、隣にいる孫娘への愛という、何にも代えがたい温かい「橙色」。
彼の感情が、想いが、記憶が、絵筆を通じてキャンバスに叩きつけられていく。すると、何もないはずのキャンバスに、奇跡が起こった。灰色の世界では誰も見たことのない、鮮烈な色彩が次々と現れ始めたのだ。

絵が完成に近づくにつれ、プリズムの心臓は激しく脈動し、七色の光を放ち始めた。光は神殿の天井を突き破り、天高く伸びていく。
「おじいちゃん……!」
ルナが息をのむ。彼女の灰色の瞳に、生まれて初めて見る「色」が映り込んでいた。
神殿から放たれた光は、灰色の空に巨大なアーチを描いた。燃えるような赤、陽だまりの黄色、深い海の青……エルマンが語ってくれた、七色の橋。
虹だ。

街の人々が空を見上げ、呆然と立ち尽くす。忘れかけていた色の記憶と、それに伴う感情が、津波のように彼らの心を洗い流していく。歓喜、驚嘆、そして涙。人々の感情の奔流がプリズムの心臓に注がれ、虹はさらに強く、鮮やかに輝いた。
世界が、ゆっくりと色を取り戻していく。

「ルナ……きれいだろう?」
エルマンの声は、ささやくように優しかった。彼は、生まれて初めて見る虹に歓声をあげる孫娘の横顔を、愛おしそうに見つめていた。
やり遂げたのだ。彼の人生のすべてを込めた最後の傑作が、世界を再び彩った。
満足げに微笑むと、エルマンはそっと目を閉じた。彼の握っていた絵筆が、ことりと音を立てて床に落ちる。
彼の魂は、自らが紡いだ虹のキャンバスへと、静かに溶けていった。

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