***第一章 雨音の訪問者***
雨の匂いが、古い紙の匂いと混じり合って、店内に満ちていた。
望月奏(もちづきかなで)が営む古書店「時雨堂」は、大通りから一本入った路地の奥に、忘れられたように佇んでいる。降りしきる雨は、街の喧騒を遠ざけ、本のページをめくる微かな音だけが支配する、奏にとっての聖域を作り出していた。
奏は、人との過度な関わりを好まなかった。幼い頃に両親を事故で亡くし、唯一の肉親だった祖母も三年前に他界した。祖母が遺したこの古書店と、壁一面に並ぶ無数の物語だけが、彼女の世界のすべてだった。本は決して裏切らない。ただ静かに、そこにいてくれる。
カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。珍しいことだった。こんな雨の日に、わざわざ古書を探しに来る客は滅多にいない。入り口に目をやると、一人の老人が、濡れた傘を丁寧に畳みながら立っていた。深い皺が刻まれた顔に、穏やかな光を宿した瞳が印象的だ。
「いらっしゃいませ」
奏はカウンターから、か細い声をかけた。老人はゆっくりと店内を見回し、やがて奏の方へ向き直った。
「一冊、探している本がありまして」
その声は、長い年月を経て磨かれた小石のように、丸く、そしてどこか懐かしい響きを持っていた。
「どのようなご本でしょうか。書名がお分かりでしたら」
「ええ……」老人は少し躊躇うように目を伏せ、そして言った。「『星屑のメロディ』という本です」
奏は記憶の索引を懸命にめくった。だが、その書名はどこにも見当たらなかった。店の在庫はすべて頭に入っている自信があったが、一度も聞いたことのないタイトルだった。
「申し訳ありません。そのような本は、当店では扱っておりません。作者名はお分かりですか?」
「いや、作者は……分からないのです。ただ、それは手作りの本で、この世に一冊しかないはずなのです。そして、きっと、この店のどこかにあるはずなのです」
この世に一冊しかない本。その言葉が、奏の心の静寂に小さな石を投げ込んだ。老人の確信に満ちた口調は、単なる思い込みとは思えなかった。なぜ、彼はこの店にあると断言できるのだろう。
「恐れ入りますが、当店にあるすべての本は商品としてリスト化しております。もしその本があれば、必ず記録に残っているはずですが……」
「そうですか……」老人は寂しそうに微笑むと、「いや、無理を言いました。また、伺わせていただきます」と深く頭を下げ、再び雨の中へと消えていった。
カラン、と寂しげなドアベルの音が響き、店内は再び静寂に包まれた。しかし、奏の心には、先ほどまでなかったはずのさざ波が立っていた。『星屑のメロディ』。その不思議な響きを持つ言葉と、老人の悲しげな瞳が、雨音と共にいつまでも耳の奥に残っていた。
***第二章 文箱に秘められた恋***
老人が残した謎は、奏の日常にじわりと染み込んでいった。仕事の合間、ふと『星屑のメロディ』という言葉が頭をよぎる。奏は、まるで誰かが出した宿題を解くように、店の隅々まで、これまで以上に丹念に調べ始めた。しかし、それらしき本は見つかるはずもなかった。
諦めかけたある晩、奏は祖母の遺品を整理することにした。祖母の部屋は、彼女が亡くなった日のまま時が止まっている。その一角にある桐の箪笥の引き出しの奥から、奏は埃をかぶった小さな文箱を見つけた。これまで一度も開けたことのない、黒漆の箱だった。
蓋を開けると、樟脳の懐かしい香りと共に、黄ばんだ封筒の束が現れた。それは、祖母が若い頃にやり取りしていた手紙のようだった。差出人の名前はなく、ただ流麗な筆跡で、祖母への想いが綴られている。奏は、他人の秘密を覗き見るような罪悪感を覚えながらも、一枚、また一枚と手紙を読み進めていった。
手紙の主は、ピアニストを目指す青年だった。そこには、音楽への情熱、将来への不安、そして奏の祖母への淡く切ない恋心が、瑞々しい言葉で描かれていた。二人がよく会っていた公園の噴水、一緒に聴いたレコード、彼の弾くピアノの音色。奏の知らなかった祖母の青春が、そこにはあった。
そして、最後の一通に、奏は息を飲んだ。
『君が作ってくれた『星屑のメロディ』、ありがとう。僕の指が、たとえ鍵盤に触れられなくなったとしても、この物語とメロディがあれば、寂しくはない。君の描く拙い星の絵が、僕にはどんな名画よりも愛おしい。いつか、このメロディを僕が完成させて、君に贈る日を夢見てる。宝物にするよ』
心臓が大きく脈打った。『星屑のメロディ』。それは、祖母が、恋人のために手作りした「絵本」だったのだ。手紙の束の底には、一枚の古びた楽譜が挟まっていた。五線譜にはインクでいくつかの音符が記されているが、途中で途切れている。未完成のメロディ。
奏は、祖母の横顔を思い浮かべた。いつも穏やかで、物静かで、自分のことなど何も語らなかった祖母。その胸の内に、こんなにも情熱的な恋の記憶が眠っていたとは。あの老人こそ、この手紙の主、伊吹という青年だったのではないか。奏は、文箱を抱きしめた。祖母への想いが、ただの懐かしさから、もっと深く、人間的な共感へと変わっていくのを感じた。
***第三章 予想を裏切る真実***
数日後の昼下がり、乾いたベルの音と共に、あの老人が再び姿を現した。奏は、カウンターの下に置いていた文箱をそっと撫で、意を決して立ち上がった。
「お待ちしておりました」
老人は驚いたように目を見開いた。奏は彼を店の奥の小さな応接スペースへと案内し、震える手で文箱を開けた。
「これを、お読みになった方が良いかと思いまして……。あなたは、伊吹さん、ではありませんか?」
老人は、手紙に目を落とすと、その肩を微かに震わせた。彼はゆっくりと頷き、皺の刻まれた指先で、そっと手紙の束に触れた。
「……そうだ。私は伊吹です。まさか、これを君が見つけてくれるとは」
伊吹と名乗った老人は、ぽつりぽつりと過去を語り始めた。ピアニストの夢、祖母との出会い、そして、彼の未来を奪った事故のこと。練習の帰り道、彼は交通事故に巻き込まれ、ピアニストにとって命ともいえる右手の指の自由を失ったのだという。
「夢を絶たれ、自暴自棄になっていた私を、彼女は懸命に支えてくれました。そして、ある日、小さな包みをくれたのです。『あなたが指を失っても奏でられる音楽よ』と言って。それが、『星屑のメロディ』でした」
伊吹はそこで言葉を切り、奏の目をまっすぐに見つめた。
「望月さん。私が探しているのは、本ではないのです」
「え……?」
奏は意味が分からず、伊吹の顔を見返した。
「彼女はね、絵がとても苦手だったんですよ」伊吹は愛おしそうに目を細めた。「手紙に『絵本』と書いたのは、彼女の照れ隠しであり、私たちの間の愛称のようなものでした。彼女が私にくれたのは……物語に合わせて、星屑のような優しいメロディが流れる、小さなオルゴールだったのです」
オルゴール。その言葉は、雷のように奏の頭を打ち抜いた。本だと思い込んでいた。祖母が描いた拙い絵の本を、ずっと想像していた。だが、真実はまったく違った。ピアニストの恋人のために、指を使わなくても奏でられる音楽を。そのあまりにも深く、優しい愛情に、奏は胸が締め付けられるようだった。自分の知っている祖母の姿が、根底から覆されていく。
「人生の最後に、もう一度、あの音色が聴きたくなったのです。彼女が私だけのためにくれた、あの星屑のメロディを」
伊吹の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。奏は、人付き合いを避け、自分の殻に閉じこもっていた自分が恥ずかしくなった。目の前には、何十年という時を超えて、一つの愛を貫き通してきた人がいる。その想いの重さと純粋さに、ただ圧倒されるばかりだった。
***第四章 時を超えた音色***
「探しましょう。絶対に、見つけ出しましょう」
奏の声は、自分でも驚くほど力強かった。もはやそれは、ただの客の探し物ではなかった。祖母が遺した愛の証を、この人の元へ届けるという、自分自身の使命のように感じられた。
二人で店中を、そして祖母の部屋を、隅から隅まで探し回った。押入れの奥、本棚の裏、床下収納。しかし、オルゴールらしきものはどこにも見当たらない。陽が傾き始め、諦めの色が濃くなったその時、奏の目が、部屋の隅にある古い柱時計に留まった。祖母が亡くなってから、止まったままの時計。なぜか、その時計が気になった。
奏は椅子を持ってくると、時計の文字盤の裏に手を伸ばした。すると、指先に、わずかな窪みを感じた。板が、一枚だけ外れるようになっている。板をずらすと、そこには時計の機構とは不釣り合いな、小さな空洞があった。そして、その奥に、ビロードの布に包まれた小さな木箱が、静かに眠っていた。
震える手で箱を取り出し、蓋を開ける。
そこには、夜空を模した深い青色の蓋に、銀の蒔絵で北斗七星が描かれた、美しいオルゴールがあった。蓋の裏には、祖母のものだろう、少し震えた文字で『星屑のメロディ』と刻まれている。
伊吹は、まるで聖遺物に触れるかのように、そっとオルゴールを受け取った。そして、ゆっくりと、ネジを巻いた。
カチ、カチ、という小さな音の後、澄み切った、それでいてどこか切ないメロディが、静まり返った店内に響き渡った。
それは、夜空から無数の星が、きらきらと光の雫になって降り注いでくるような、優しく、清らかな音色だった。
伊吹の頬を、涙が止めどなく伝っていた。
「……ありがとう。ああ、ありがとう……。また、会えた……」
その姿を見ているうちに、奏の目からも、温かいものが込み上げてきた。祖母の愛。伊吹の想い。時を超えて結ばれた二つの魂。人と深く関わることを避けてきた奏が、初めて知る、誰かの人生と自分の人生が交差する瞬間の、どうしようもないほどの感動だった。
伊吹は、満足そうに何度も頷くと、深々と頭を下げて店を去っていった。
一人残された奏は、夕暮れの光が差し込むカウンターに立ち、窓の外を眺めていた。心の中では、まだあの星屑のメロディが鳴り響いている。祖母が遺してくれたのは、この古書店だけではなかった。人を想う心の温かさ、そして誰かの記憶の中で生き続けることの尊さを、教えてくれたのだ。
奏は、文箱に残されていた未完成の楽譜を手に取った。それは、オルゴールのメロディをピアノ用に編曲しようとしたものらしかった。奏はピアノを習ったことはない。けれど、このメロディを、自分の指で奏でてみたいと、強く思った。
祖母と伊吹の物語は、ここで一つの結びを迎えた。だが、その優しいメロディは、今、奏の中で、新しい物語を静かに奏で始めていた。時雨堂のドアベルが、夕風に吹かれて、カラン、と希望に満ちた音を立てた。
星屑のメロディ
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