蒼汰(そうた)の工房には、いつも諦めの匂いがした。祖父の代で名を馳せた「水月工房」も、今では彼が一人、ありふれたグラスを焼いて糊口をしのぐだけの場所に成り下がっていた。効率と安さが支配するこの時代に、手作りのガラスに昔日の栄光を求める者など、誰もいなかった。
そんなある日、大掃除で開かずの間に手を入れた蒼汰は、埃をかぶった桐の箱を見つけた。中には、黒い革表紙の分厚い手記と、小さな布に包まれたガラスの欠片が一つ。何気なくその欠片を窓の光にかざした瞬間、蒼汰は息を呑んだ。
ただのガラスではない。内側から、まるでオーロラのように柔らかな七色の光が溢れ出すのだ。それは、今まで見たどんな宝石よりも深く、心を揺さぶる美しさだった。手記の表紙には、墨で『天虹の硝子』と記されていた。
ページをめくると、そこは蒼汰の知らない祖父の世界だった。ぎっしりと書き込まれた文字は、硝子への狂気的なまでの情熱に満ちていた。しかし、その製法は理解を超えていた。「霧氷石(むひょうせき)の粉末を三匙」「龍の息吹で熱し、夜明けの明星が消えるまで冷ます」「シリウスの瞬きを写し取るべし」――。それは、おとぎ話の呪文にしか見えなかった。
「馬鹿げてる」
大手ガラスメーカーで働く幼馴染の健吾は、手記を一瞥して吐き捨てた。「そんな非科学的なもので、商売になるもんが作れるかよ。お前の才能がもったいない。うちの会社に来い」
健吾の言うことは正しい。だが、蒼汰の目には、あの欠片が放つ虹色の光が焼き付いて離れなかった。あの光は、本当にただの偶然だったのだろうか。
蒼汰の挑戦が始まった。手記の解読は困難を極めた。図書館に通い詰め、古い文献を漁る。わずかな記述を頼りに、今はもう採掘されていないという霧氷石を探して、寂れた鉱山跡を訪ね歩いた。工房の隅で、何度も、何度も、硝子を焼いた。しかし、出来上がるのは濁った灰色の塊ばかり。窯の中で無残に砕け散る音を聞くたび、心も一緒に砕けていくようだった。
絶望が工房の隅々にまで満ちた頃、一人の来訪者が現れた。
「あの、SNSであなたの活動を拝見して……」
ひかりと名乗る大学院生だった。古文書学を専攻する彼女は、蒼汰の手記に書かれた詩的な言葉が、古代の錬金術や占星術で用いられた隠語ではないかと指摘した。
「『龍の息吹』は、特殊なふいごで送る螺旋状の風のことかもしれません。『シリウスの瞬き』は、特定の周期で窯の火力を調整することを示唆しているのかも……」
ひかりの協力は、闇の中の一筋の光だった。二人は頭を突き合わせ、夜を徹して手記の解読を進めた。それはまるで、壮大な謎解きに挑む冒険のようだった。失敗の山はなおも高く積み上がっていく。だが、蒼汰の心には、諦めとは違う感情が芽生えていた。ワクワクしていた。一人ではなかった。同じ夢を見てくれる仲間がいた。
そして、ある満月の夜。ついに、全てのピースが揃った。霧氷石と火山灰の完璧な配合。松の根から抽出した特別な油を燃料に。そして、手記の最後のページに記されていた、謎の言葉。
『心に虹を描け。硝子は魂の写し鏡なり』
蒼汰は、ふと祖父が口ずさんでいた古い民謡を思い出した。それは、星の巡りを歌った、不思議な旋律の歌だった。これだ、と直感が告げた。魂の写し鏡。これは、製作者の想いやリズム、その全てが硝子に宿るという意味ではないのか。
「ひかりさん、見ててくれ」
蒼汰は窯に火を入れた。そして、歌った。祖父が歌っていたように、独特の節回しで、星々に語りかけるように。汗が噴き出し、全身の力が窯へと注がれていく。ふいごを踏む足は正確なリズムを刻み、窯の中の炎が、まるで歌に応えるかのように、青白い不思議な光を帯びて揺らめいた。
夜が明け、工房に朝の光が差し込む。蒼汰は震える手で、ゆっくりと窯の扉を開けた。
立ち上る熱気の中に、それはあった。
静かに佇む、一つの杯。
言葉を失った。ひかりが、そっと息を呑む音が聞こえた。杯は、まるで夜空に架かる虹そのものを掬い取って、そのまま形にしたかのようだった。光を受けるたびに、その内側で無数の星屑が生まれ、七色の光となって溢れ出す。それは、科学や理論だけでは決して辿り着けない、人の想いが起こした奇跡の結晶だった。
後日、噂を聞きつけた健吾が工房を訪れた。彼は完成した杯を前に、ただ立ち尽くしていた。その表情には、いつもの傲慢な笑みはなく、純粋な驚きと、畏敬の念が浮かんでいた。
「……負けたよ」
絞り出すような声でそう言うと、健吾は初めて、心の底から笑った。「すごいな、お前」
蒼汰は、天虹の硝子を量産することはしなかった。ただ、本当に大切な誰かのために、心を込めて、魂の歌を歌いながら、虹を焼き続ける。
水月工房には、今も静かに火が灯っている。それは、失われた時代の灯火であり、一つの情熱が起こした感動の輝きだった。訪れる人々は皆、その小さな杯に閉じ込められた無限の虹を見て、忘れかけていた心のワクワクを思い出すのだった。
天虹の硝子
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