神田の大店「越後屋」の土蔵から、千両箱が忽然と消えた。厳重に錠が下ろされた扉、破られた形跡のない窓。まさに、物の怪か天狗の仕業としか思えぬ不可解な事件に、八丁堀の同心たちも匙を投げていた。
「こうなれば、あの男を呼ぶしかあるまい…」
奉行所の与力、佐久間が苦虫を噛み潰したように呟いた。
その男、渋沢龍之介は、かつては小藩の勘定方で辣腕を振るった武士であったが、今は禄を離れ、寺子屋で子供たちに算術を教える風変わりな浪人暮らしを送っていた。彼の腰にあるのは刀ではなく、年季の入った大きな算盤。人々は彼をこう呼んだ。「算盤侍」と。
報せを受けた龍之介は、寺子屋の子供たちに「今日の稽古はここまで」と告げると、愛用の算盤と矢立(やたて)を手に、悠然と越後屋へ向かった。
現場の土蔵は、ひんやりとした空気と黴の匂いが混じり合っていた。同心たちが血眼になって粗探しをするのを横目に、龍之介は蔵の真ん中に座り込むと、パチリ、と算盤を弾き始めた。
「蔵の広さは、縦が三間、横が二間半。天井までの高さは九尺。千両箱一つの重さが三十貫。ふむ…」
彼は独り言ちながら、蔵の寸法、積まれた商品の数、床板のわずかな歪み、壁の漆喰に残る微かな傷まで、目に入るものすべてを数字に置き換えていく。その姿は、剣豪が敵との間合いを測るかの如く、真剣そのものであった。
「龍之介殿、何か分かりましたか」
痺れを切らした佐久間が問う。龍之介は算盤から目を離さずに答えた。
「佐久間様。この蔵は、あまりにも『完璧』すぎる」
「完璧、ですと?」
「ええ。物が盗まれたにしては、空気の乱れがなさすぎる。まるで、最初からそこに千両箱など無かったかのように…」
龍之介は次に、越後屋の主人と番頭を呼び、大福帳を検分し始めた。膨大な量の帳面を前に、彼は水を得た魚のように算盤を走らせる。その指の動きは、もはや常人には追えぬ速さだった。
夜が更け、皆が疲労の色を見せ始めた頃、龍之介の算盤の音が、ぴたりと止んだ。
「…見つけた」
翌朝、龍之介は越後屋の主人、番頭、手代たちを蔵の前に集めた。
「皆々様、この度の事件、犯人はこの中にいる。そして盗まれた千両箱は、そもそもこの蔵には存在しなかった」
一同がどよめく中、龍之介は静かに語り始めた。
「犯人は、長年にわたり、帳面上の数字を巧妙に操っていた。例えば、百ある商品を百五と記し、その差額を着服する。塵も積もれば山となる。そうして架空の利益を積み重ね、帳面の上だけで『千両箱』を作り上げたのだ。そして、その『幻の千両箱』が盗まれたと見せかけた。これぞ、墨と算盤のみで作り上げた、密室のトリック」
龍之介の鋭い視線が、顔面蒼白の男を射抜いた。大番頭の治平だった。
「治平殿。貴殿のつけた帳面には、奇妙な癖がある。三の倍数の勘定の際に、必ず一厘の誤差が生じている。それは他の者が気づかぬよう、別の項で補填されているが…その規則性こそが、貴殿の署名だ」
観念した治平が、その場に崩れ落ちた。病に伏せる妻の薬代のために始めた不正が、いつしか欲に変わり、引き返せなくなっていたのだった。龍之介は、治平が帳面の数字の規則性に従って隠したであろう床下を指し示した。そこからは、彼が着服してきた小判が詰まった壺が見つかった。
事件は解決した。奉行所からの褒賞の申し出も、龍之介は「某は、ただ数字の辻褄を合わせたまで」と固辞したという。
数日後、寺子屋には、子供たちの元気な声と共に、小気味よい算盤の音が響いていた。
「よいか、皆の者。数字は決して嘘をつかぬ。嘘をつくのは、いつだって人の心だ」
窓から差し込む陽の光を浴びながら、算盤侍は穏やかに微笑んでいた。江戸の町に潜む悪を、彼はこれからも、剣ではなく、ただ一本の算盤で斬り伏せていくのだろう。
算盤侍、密室の蔵を断つ
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