神田の裏通りに、風間一馬(かざまかずま)の小さな工房はあった。昼間は子供たちの笑い声が絶えない。一馬が作る精巧なからくり人形は、江戸一番と評判だったからだ。「一馬さん、この鳥、本当に羽ばたくのかい」「おう、もちろんだとも。日の光を浴びると、命が宿るのさ」柔和な笑みを浮かべ、一馬は小さな木彫りの鶯(うぐいす)を少年の手に乗せた。
その日の夕暮れ、工房の戸を叩く音がした。血相を変えて飛び込んできたのは、顔馴染みの船大工の娘、お咲だった。
「一馬様……!父が、父が殺されました!」
お咲の父・源造は、頑固だが腕は一流の職人だった。聞けば、新興の廻船問屋「黒潮屋(くろしおや)」に逆らったのが原因だという。
「黒潮屋は、父の腕を欲しがっていました。何か、よからぬ船を造らせようとして……。父は断固として断り、その証拠となる図面を隠したと……。それが原因で……」
お咲の震える手には、源造が最後に握りしめていたという、何の変哲もない小さな木の駒が一つだけあった。
その夜、月も隠れた丑三つ時。工房に不穏な影が複数、忍び寄った。お咲を狙う黒潮屋の手下どもだ。
「小娘はどこだ。大人しく出てくれば命だけは助けてやる」
下卑た笑い声が響いたその時、工房の空気が変わった。
「客人を脅かすとは、無粋な真似を」
そこに立っていたのは、昼間の温厚な職人ではない。冷徹な眼差しを宿し、黒装束に身を包んだ一馬だった。
手下の一人が斬りかかる。だが、その足元の床板が音もなく開き、男は暗闇へと消えた。驚く仲間の眼前で、壁に掛かっていた能面がカッと目を見開き、目くらましの煙を噴出する。
「な、何だこれは!?」
混乱の中、天井から降りてきた鋼鉄の鉤爪が、残りの手下どもの刀を瞬く間にはじき飛ばした。からくり師・風間一馬。しかし、その裏の顔は、法で裁けぬ悪を自らの「絡繰」で葬る仕掛人、「影法師」であった。
意識を失った手下どもを縛り上げ、一馬はお咲が持っていた木の駒に目をやった。指先で探ると、微かな継ぎ目がある。特定の順序で駒の面を押し込むと、カチリと軽い音を立てて駒が割れ、中から固く丸められた和紙が現れた。
広げると、そこには異様な形をした大型船の図面が描かれていた。幕府の監視船よりも速く、嵐にも強い構造。これを使えば、禁制品の密貿易も意のままだ。黒潮屋が躍起になって探していたのは、この「富を生む悪魔の設計図」だったのである。
「お咲さん。親父さんの無念、この一馬が晴らしてみせる」
翌日の夜。黒潮屋の屋敷は、巨大な蔵を中心に鉄壁の守りが敷かれていた。主の仁左衛門(にざえもん)は、最強の用心棒を傍らに置き、ほくそ笑んでいた。
「図面さえ手に入れば、この江戸は俺の庭になる……」
用心棒の名は、鬼灯(ほおずき)の弦蔵(げんぞう)。抜き身のような殺気を放つ、無口な凄腕の浪人だった。
その時、屋敷のあちこちで、突如として火急を知らせる半鐘の音が鳴り響いた。陽動だ。弦蔵が眉をひそめ、蔵の外へ飛び出した瞬間、漆黒の影が屋根から蔵の中へと滑り込んだ。影法師こと、一馬である。
「待っていたぞ、影法師」
蔵の暗闇から響いたのは、弦蔵の声だった。陽動は読まれていたのだ。弦蔵の刀が闇を裂き、一馬の喉元へ迫る。
一馬は身をひるがえし、懐から数個の鉄球を床にばら撒いた。鉄球は火花を散らしながら不規則に跳ね回り、けたたましい金属音を立てる。
「小賢しい!」
弦蔵は音に惑わされず、一瞬で一馬との間合いを詰める。だが、一馬が指を弾くと、壁に仕込んであった板が倒れ、無数の小さな鏡が月光を乱反射させた。
「ぐっ……!」
目が眩んだ弦蔵の隙を突き、一馬の右腕が袖から伸びた。それは、鋼の関節を繋ぎ合わせた伸縮自在の「絡繰腕」。先端の鉤爪が、蛇のように弦蔵の刀に巻き付いた。
「なっ!?」
ギリギリと金属が軋む音。人の腕とは思えぬ力で刀を締め上げられ、ついに弦蔵は柄を手放した。刀は宙を舞い、天井の梁に突き刺さる。
「剣の腕は確かだが、見えぬ敵とは戦えまい」
勝負は決した。
「化け物め……!」
物陰から見ていた仁左衛門が、短刀を手に飛び出してきた。だが、その足は宙を掻いた。一馬が足元の紐を引くと、天井から降りてきた巨大な網が、仁左衛門をすっぽりと包み込んで吊り上げた。
「俺のからくりからは、誰一人逃げられん」
夜が明ける頃、町奉行所の役人たちが踏み込み、密貿易の証拠と共に黒潮屋一味は一網打尽となった。
数日後、神田の工房には、いつものように子供たちの笑い声が戻っていた。
「一馬さん、次は空飛ぶ龍を作っておくれよ!」
「ははは、そいつは骨が折れそうだ」
穏やかに笑う一馬の工房の片隅。黒い絡繰腕が、油を差され、静かに次の出番を待っていた。江戸の闇に悪が蠢く限り、影法師の絡繰の刃が、錆び付くことはない。
絡繰の刃(からくりのやいば)
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