音写し

音写し

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江戸は神田の裏通りに、橘屋清十郎という男が工房を構えていた。表向きは、子供を喜ばせる独楽(こま)や、大名屋敷の仕掛け扉を作る評判のからくり師。人当たりが良く、いつも困ったように眉を下げているその顔は、およそ武士や荒事とは無縁に見えた。だが、清十郎にはもう一つの顔があった。一度聴いた音を寸分違わず記憶し、声帯と身体一つで完璧に再現する〝音写し〟の異能である。

ある月のない夜、大店(おおだな)越後屋の若旦那が、青い顔で清十郎の戸を叩いた。「橘屋殿、どうかお力添えを。夜な夜な、我が家の土蔵から奇妙な音が聞こえるのでございます。まるで、百の鬼が哭(な)くような…」

破格の礼金に、清十郎は静かに頷いた。

丑三つ時、清十郎は息を殺して越後屋の土蔵に忍び込んだ。ひやりとした闇の中、彼は耳だけに全神経を集中させる。しばらくすると、それは聞こえてきた。

キィン、コロロ…カッカッ…キィィ…。

人の声でも獣の声でもない。金属が擦れ、玉が転がり、硬い木を叩くような、無機質でいて複雑な旋律。若旦那が「百鬼夜哭」と怯えたのも無理はない、不気味な音の連なりだった。清十郎は、その奇怪な音のすべてを鼓膜に焼き付け、闇に溶けるようにその場を辞した。

工房に戻った清十郎は、目を閉じ、あの音を喉の奥で再現した。
「キィン、コロロ…カッカッ…キィィ…」
自ら発した音を何度も繰り返し、分析する。それはただの物音ではなかった。音の高さ、間、響き。すべてに意味がある。これは…符号だ。南蛮渡りの精巧な錠前を開けるための手順を示す「音の鍵」に相違ない。

その時だった。背後に冷たい殺気を感じ、清十郎は咄嗟に床を転がった。ひゅん、と空気を切り裂く音。先ほどまで彼がいた場所に、闇から伸びた刃が突き立っていた。

「聞いたな、からくり師。その耳、ここに置いていってもらう」

黒装束の男が、ぎらつく刀を構えている。越後屋の蔵に隠されていたのは、幕府転覆を狙う一味が密輸した新型鉄砲の設計図。あの音は、それを奪うための合図だったのだ。依頼主の若旦那は、彼らに脅されていたに過ぎない。

絶体絶命。清十郎に剣の心得はない。だが、彼の唇の端が、かすかに吊り上がった。

「貴様一人か。仲間は来ぬのか」
清十郎が問いかけると、黒装束は「口数の多いやつめ」と斬りかかってきた。

その瞬間、工房の四方から声が響いた。
「待て!」
「裏切り者め!」
「こやつを斬れ!」
すべて黒装束の男と寸分違わぬ声色。男は驚愕に目を見開き、動きを止めた。清十郎が、先ほどの短い会話で男の声を〝音写し〟したのだ。

混乱する男の耳に、今度は背後から迫る複数の足音が届く。ザッ、ザッ、ザッ…。慌てて振り返るが、そこには誰もいない。すべては、清十郎が口と足踏みで作り出した幻聴。

「どこだ…どこにいる!」
闇雲に刀を振り回す男。その耳元で、清十郎は囁くように、小さな、しかし明瞭な音を発した。
〝カチリ〟
それは、男が持つ刀の鍔(つば)が、ほんのわずかに緩む音だった。男は無意識に自分の刀に視線を落とす。

その一瞬の隙。清十郎は足元に転がっていたカラクリの部品を蹴り上げた。部品は放物線を描き、男の眉間に正確に命中する。呻き声とともに、巨体がどうと倒れた。

後日、清十郎が写し取った「音の鍵」と、刺客の声色で再現された仲間とのやり取りは、奉行所への決定的な証拠となった。一味は一網打尽となり、江戸に渦巻いていた一つの陰謀が潰える。

橘屋清十郎は、いつものように眉を下げて工房に座り、子供のための新しいからくり人形に鑿(のみ)を振るっていた。カタ、コト、と木を削る穏やかな音。しかし、彼の耳は、往来の喧騒の奥で鳴る、次なる事件の産声を、静かに聞き分けているのであった。

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