天空に浮かぶ都市「アリア」。その街並みは、歌を力に変える響晶族の魔法によって、水晶のように輝いていた。人々は「創造の歌」を口ずさみ、家を建て、光を灯し、日々の糧を得る。調和の取れた美しい歌声こそが、ここでは絶対の価値だった。
しかし、この街にたった一人、調和の取れない歌しか歌えない少女がいた。リラだ。
彼女の歌声は、まるでガラスを爪で引っ掻くような不協和音。彼女が「創造の歌」を歌えば、生まれるのは歪んだパンや、ひび割れた水差しばかり。リラはいつも俯き、自分の影を数えるようにして生きていた。
その日、アリアを根底から揺るがす異変が起きた。都市の浮力を支える中枢、「大調和クリスタル」が光を失い始め、街全体がゆっくりと傾きだしたのだ。空に浮かぶ楽園が、奈落の雲海へと墜落する恐怖が、美しい街を支配した。
長老たちは必死にクリスタルへ調和の歌を注いだが、その輝きは弱まるばかり。
「クリスタルが『渇いて』おられる…完璧な調和だけでは、もう…」
絶望的な声が広がる中、リラは自分の胸に手を当てていた。クリスタルが軋む微かな不協和音が、なぜか自分の歌声と共鳴している気がしたのだ。
(もしかして、あたしのせい…?)
罪悪感と、説明のつかない使命感に突き動かされ、リラは誰にも告げずに家を飛び出した。目指すは、禁忌の地として語り継がれる「静寂の谷」。そこにある古代遺跡に、都市を救うヒントが眠っていると、古い伝承が告げていたからだ。
谷への道は、音を喰らう魔物「無音獣(サイレントビースト)」が巣食う危険な森だった。仲間を呼ぼうにも、美しい歌声は格好の餌食となる。リラは震える唇で、祈るように歌い始めた。それはいつもの、耳障りな不協和音。
すると、驚くべきことが起きた。茂みから現れた無音獣たちが、リラの歌を聞くなり苦しみ始め、耳を塞いで逃げていくではないか。調和を喰らう魔物にとって、彼女の不協和音は耐え難い苦痛だったのだ。
「あたしの歌が…役に立った…?」
初めて自分の力が肯定された瞬間だった。リラは胸に灯った小さな勇気を頼りに、前へ進んだ。
辿り着いた遺跡の奥で、彼女が見たものは伝説の秘宝などではなかった。そこにあったのは、すべての音を吸い込むかのように静まり返った、巨大な黒曜石――「沈黙の石」。
そして、その周りの壁画には、アリアの真実が刻まれていた。
世界は、調和だけで成り立っているのではない。光には影が、創造には破壊が伴うように、調和にもまた「不協和音」という名の刺激が必要なのだと。完璧な調和が続きすぎたアリアのクリスタルは、いわば生命力を失い、停滞していた。都市の傾きは、新たな刺激を求める悲鳴だったのだ。
「沈黙の石」は、不協和音を吸収し、それを強大な調和のエネルギーへと変換するための古代の装置だった。
「あたしが、歌うんだ…」
リラは「沈黙の石」の前に立った。もう劣等感はない。これは欠点などではなかった。世界が、この街が必要としていた、たった一つの音色。
彼女は息を吸い込み、魂の底から歌を紡いだ。それは誰の真似でもない、自分だけの歌。ひび割れ、軋み、けれど力強い生命力に満ちた不協和音。音の奔流が「沈黙の石」に叩きつけられる。石は黒い輝きを放ち、凄まじいエネルギーの光線を天へと放った。
その光は雲を突き抜け、傾いたアリアの「大調和クリスタル」を撃ち抜いた。クリスタルは一瞬激しく明滅した後、かつてないほどの清らかで力強い輝きを取り戻す。街の傾きが止まり、ゆっくりと水平に戻っていくのが、リラのいる谷からでも見て取れた。
アリアに帰還したリラを、人々は英雄として迎えた。彼女の歌は「聖なる不協和音」と呼ばれ、都市の安定に不可欠なものとして称えられた。
リラはもう俯かない。胸を張り、自分だけの歌を歌う。その不揃いなメロディこそが、完璧すぎた世界に彩りと強さを与えるのだと、誰もが知ったからだ。空に浮かぶ水晶の都市には、今日も美しい調和の歌声と共に、一人の少女の、愛おしい不協和音が響き渡っている。
不協和音の歌姫
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