追憶のオルゴール

追憶のオルゴール

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***第一章 錆びついた旋律***

リオが営む古物商『時の迷い子亭』には、埃と懐かしい木の匂いが満ちていた。西陽がステンドグラスを通り抜け、床に色とりどりの光の欠片を散らしている。客のいない午後は、止まった振り子時計の針のように、時間が緩やかに澱んでいた。リオはカウンターの奥で、ルーペを片手に古びた銀貨の傷を眺めるのが常だった。彼は魔法や奇跡といった不確かなものを信じない。確かなのは、こうして手に取れる物の歴史と、それが持つ物質的な価値だけだ。

その日、店のドアベルが乾いた音を立てたのは、空が茜色に染まり始めた頃だった。入ってきたのは、顔をフードで隠した旅人風の男。男は無言で、布にくるまれた小さな木箱をカウンターに置いた。

「これを買い取ってほしい」

しゃがれた声だった。リオは無愛想に頷き、布を解く。現れたのは、精巧な彫刻が施された古いオルゴールだった。黒檀と思しき本体には、月桂樹の葉と眠る妖精が彫り込まれ、所々、銀の象嵌が鈍い光を放っている。だが、全体はひどく傷み、金属部分は錆びつき、ネジは固着して回らない。およそ音を奏でるとは思えなかった。

「壊れている。値はつきませんよ」
リオが冷たく言い放つと、男はフードの奥で小さく笑った。
「価値が分かる者に渡ればいい。アンタ、ここの生まれだろう? なら、分かるかもしれん」

意味の分からない言葉を残し、男は金も受け取らずに店を出ていった。後に残されたのは、不気味なほどの静寂と、カウンターに鎮座するオルゴールだけ。リオは舌打ちし、そのガラクタを店の隅に放ろうとして、ふと指先に奇妙な温もりを感じた。

それは、まるで人の肌のような、微かで優しい温かさだった。

その瞬間、リオの脳裏に、忘れていたはずの旋律が稲妻のように閃いた。優しく、どこか切ない子守唄。幼い彼をあやす、母の声。彼はハッとしてオルゴールを掴んだ。どういうわけか、錆びついていたはずのネジが、するりと指先で回る。

カチリ、と小さな音が響いた。そして、信じられないことが起きた。

オルゴールの蓋の隙間から、蛍のような淡い光がいくつも溢れ出し、店の中をゆっくりと舞い始めたのだ。光は埃をきらめかせ、壁の染みに触れてはそこにかつての鮮やかな模様を束の間だけ映し出し、止まった時計の針を微かに揺らした。それは、触れたものの「失われた時」を呼び覚ますかのような、儚くも美しい光景だった。

リオは息を呑んだ。現実主義者である彼の世界が、音を立てて軋み始める。このオルゴールは、ただのガラクタではない。そして、その温もりと旋律は、彼が心の最も深い場所に封じ込めていた、亡き母の記憶そのものだった。

***第二章 色褪せた楽譜***

その夜から、リオの日常は一変した。彼は店を閉ざし、あのオルゴールに取り憑かれたように時間を費やした。昼夜を問わず、書庫に籠もり、街の歴史や忘れられた伝承に関する古文書を片っ端から読み漁った。あの光は何なのか。なぜ、母の記憶と結びついているのか。答えを求めずにはいられなかった。

調査は困難を極めた。魔法という言葉自体が、この街ではおとぎ話の類として扱われて久しい。しかし、リオは諦めなかった。かつて、母は植物を育てるのが得意だった。彼女が触れると、萎れた花も息を吹き返した。人々はそれを「緑の指」と呼んで褒めそやしたが、今思えば、あれも不思議な力の一端だったのかもしれない。

数週間後、リオはついに一冊の古びた革表紙の本に辿り着く。それは『心奏論』と題された、個人の手記のような書物だった。インクは掠れ、羊皮紙は脆くなっている。だが、そこに記された内容は、彼の心を激しく揺さぶった。

『心奏魔法。それは、万物に宿る想いの残滓に共鳴し、奇跡を紡ぐ古の秘術。術者の強い想念、すなわち愛、悲しみ、喜びといった感情そのものを触媒とし、物質の記憶を呼び覚まし、形を与える……』

心奏魔法。その記述は、オルゴールが起こした現象と完全に一致していた。書物によれば、この魔法は想いを力に変えるがゆえに、制御が極めて難しく、使い手はごく僅かだったという。リオは確信した。母は、この心奏魔法の使い手だったのだ。そしてこのオルゴールは、息子への愛情という強大な想いを注ぎ込まれた、魔法の結晶なのだと。

その日から、リオの探求は新たな段階に入った。彼は母を、あの優しい温もりを、もう一度この手で感じたかった。ただの記憶としてではなく、確かな存在として。彼は手記の記述を頼りに、心奏魔法の再現を試み始めた。古物商の知識を総動員し、魔力を集めやすいとされる銀の粉末や、記憶を宿しやすいという月長石を揃えた。

彼の心は、かつてないほどに高揚していた。孤独な日々は終わりを告げるかもしれない。魔法を操り、母の幻影にでも会うことができたなら。失われた温もりを取り戻すことができたなら。その一心で、彼は来る日も来る日も、オルゴールに自らの想いを注ぎ続けた。

「母さん、会いたい……」

彼の頬を涙が伝い、石の床に落ちて染みを作った。彼の切なる願いに呼応するように、オルゴールの光は日増しにその輝きを強めていった。

***第三章 禁じられた和音***

満月の光が書庫に差し込む夜だった。リオは、ついに魔法を発動させるための儀式の準備を終えた。床には月長石と銀の粉で描かれた魔法陣。その中央に、あのオルゴールが置かれている。彼の胸は期待と不安で張り裂けそうだった。

彼は両手をオルゴールにかざし、意識を集中させた。脳裏に浮かべるのは、母の笑顔、声、温もり。彼が持つ記憶のすべてを、ありったけの想いを、オルゴールへと注ぎ込む。

「――来てくれ、母さん!」

叫びが部屋に響き渡った瞬間、オルゴールからこれまでとは比較にならないほどの眩い光が迸った。光は渦を巻きながら立ち昇り、やがて一人の女性の姿を形作る。亜麻色の髪、優しい眼差し。それは紛れもなく、若き日の母、エマの姿だった。

「母さん……!」

リオは感極まって一歩踏み出した。しかし、母の幻影は悲痛に満ちた表情で、かぶりを振った。その唇が、音もなく動く。

『リオ……やめて……その魔法を使っては、だめ……』

声ではない。想いが直接、リオの心に流れ込んでくる。その言葉の意味を理解する前に、彼の頭を凄まじい痛みが襲った。まるで、記憶を無理やり引き剥がされるような感覚。目の前の母の姿が、陽炎のように揺らぎ始める。

『心奏魔法の本当の力を、あなたはまだ知らない……。この魔法は、想いを力に変える。けれど、等価交換なの。奇跡を起こすには、それに見合う代償が必要……』

代償? リオが混乱していると、母の言葉が再び心に響いた。

『その代償は……術者が持つ、最も大切な記憶……』

衝撃の事実に、リオは息を呑んだ。では、母は一体、何の記憶を代償にしたというのか。彼の疑問に答えるかのように、エマの幻影は哀しげに微笑んだ。

『あの日、あなたは熱を出して生死の境を彷徨った。どんな薬も効かなかった。私は……あなたを失いたくなくて、この魔法を使ったの。私のすべてを懸けて、あなたの命を繋ぎとめてもらった』

エマが代償として捧げたもの。それは、彼女が生きてきた証そのものだった。彼女の友人たちの記憶から、隣人たちの記憶から、そしてこの世界の記録から、「エマ」という女性が生きていたという事実の大部分が消え去った。人々が彼女を覚えているのは、ただ「リオの母親」としてだけ。彼女個人の思い出や、彼女が誰と笑い、何を愛したかという記憶は、リオの命を救うために、世界から綺麗に消し去られていたのだ。

『だから、あなたの中にだけ、本当の私が残っているの。もしあなたがこの魔法を使えば……あなたの中から、私に関するすべての記憶が消えてしまう。それが、代償だから。私に会うために、私を忘れることになるのよ……。お願い、リオ。私を、二度も殺さないで……』

幻影は涙を流していた。その姿は徐々に薄れ、光の粒子となって霧散していく。リオはただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。自分が追い求めていた奇跡の正体は、あまりにも残酷な真実だった。母の愛は、彼女自身の存在を賭した、究極の自己犠牲の上に成り立っていたのだ。

***第四章 沈黙のフィナーレ***

母の幻影が消えた後、書庫には重い沈黙だけが残った。床の魔法陣は光を失い、月長石が冷たく転がっている。リオは、その場に崩れるように膝をついた。

母に会いたい。その一心で、彼はすべてを捧げる覚悟だった。だが、その代償が「母を忘れること」だというのなら、何の意味があるだろう。触れることも話すこともできなくとも、この胸の中にある温かい記憶こそが、母が生きていた唯一の証なのだ。それを失ってしまえば、彼は本当の意味で天涯孤独になってしまう。母は、自らの存在と引き換えに、息子の中に「記憶」という形で生き続けることを選んだのだ。

リオはゆっくりと立ち上がると、オルゴールをそっと手にとった。もう、そこから光が漏れることはない。魔法の源であった彼の強すぎる渇望が、真実を知ったことで鎮められたからだ。彼はオルゴールの蓋を開け、固着していたはずのネジを巻いた。

カチリ、と音がして、錆びついた旋律が微かに流れ出す。それは、かつて母が歌ってくれた子守唄。音は途切れ途切れで、お世辞にも美しいとは言えない。だが、その不器用な音色の一つ一つが、リオの心に染み渡った。

彼はオルゴールを抱きしめた。涙が止めどなく溢れたが、それは絶望の涙ではなかった。母の愛の深さを知り、その愛に守られて今自分がここにいるのだという、感謝と愛惜の涙だった。

翌朝、リオは久しぶりに『時の迷い子亭』の扉を開けた。朝日が店内に差し込み、埃を黄金色に照らし出す。彼はもう、孤独な現実主義者ではなかった。目に見えない想いの価値を、記憶という宝物の重さを、誰よりも知る人間になっていた。

あのオルゴールは、カウンターの一番良く見える場所に飾られている。それはもう二度と魔法の光を放つことはないだろう。だが、リオがそれを見るたび、彼の胸の内には、母の笑顔と共に、温かく優しい光が灯るのだ。

世界から忘れられた母の記憶は、確かにここに在る。息子の心という、誰にも侵すことのできない聖域の中で、永遠に美しい旋律を奏で続けている。リオは窓の外に広がる青空を見上げ、そっと微笑んだ。彼はもう、一人ではなかった。

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