言葉の亡霊と浮遊図書館

言葉の亡霊と浮遊図書館

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雲海に浮かぶ巨大な知識の島、アイトリア。その心臓部である中央大書庫に、異変が起きたのは月が三つ空に懸かる夜だった。警備の護書官(ガーディアン)たちが発見したのは、がらんどうになった最重要禁書室と、声も記憶も失い、虚ろな目で虚空を見つめる同僚の姿だった。

「これは『沈黙教団』の仕業だ。間違いない」
長大なミスリル銀の槍を背負った護書官、セナは忌々しげに吐き捨てた。彼女の鋭い翠色の瞳が、床に残された奇妙な紋様を捉える。それはまるでインクを零したシミのようでありながら、一切の光を反射しない、不気味なほどの「黒」だった。
隣でしゃがみ込んでいた見習い解読師(デコーダー)のリオは、震える指でその紋様にそっと触れた。
「違う…これはただの紋様じゃない。悲鳴を飲み込んだ文字だ」
「文字?何かの古代語か?」
「ええ。呪われた言語、『虚ろなる言葉(ヴォイド・スクリプト)』。感情を喰らい、存在を希薄にする力を持つと伝えられています」
リオはセナよりも小柄で、その瞳は分厚い解読用の眼鏡の奥で不安げに揺れていた。だが、こと古代文字に関する知識と直感にかけては、彼はアイトリア随一の才能を秘めていた。

盗まれたのは『創世の詩篇』。世界がどのようにして「言葉」から生まれたかを記した、神代の書物。教団の目的は、その力を悪用し、世界から全ての物語と感情を消し去ることにある。
「奴らのアジトを突き止める。手がかりは?」セナの問いに、リオは紋様から顔を上げた。
「この文字には…微かな指向性が残っている。まるで道標のように。大書庫の、さらに下…忘れられた『旧図書館』を指しています」

アイトリアの土台深くに眠る旧図書館は、禁書に心を蝕まれた者や、物語から抜け出した危険な魔物たちが封印された、迷宮のような遺跡だった。
セナの掲げる光球だけを頼りに、二人は埃とインクの匂いが混じり合う石の回廊を進む。壁一面の書架には、朽ちかけた背表紙が並び、時折、紙魚のように文字の欠片が走り抜けては闇に消えた。
突如、前方の闇から巨大な影が躍り出た。物語に描かれた「貪食のグリフィン」。その鉤爪は鋼を裂き、風切り羽は真空の刃を生み出す。
「リオ、下がって!」
セナが槍を構え、疾風のごとく突進する。金属音が火花を散らし、激しい攻防が繰り広げられた。だが、グリフィンの咆哮が遺跡に響き渡った瞬間、セナの動きが鈍る。
「くっ…!声に…呪詛が…!」
グリフィンの咆哮は、ただの威嚇ではなかった。聴く者の闘争心を奪う、物語の呪い。膝をつきそうになるセナ。
その時、リオが叫んだ。
「セナ、耳を塞いで!あの怪物の核は喉にある『詠唱石(スペルストーン)』だ!物語の心臓だよ!」
リオは書架から一冊の古びた詩集を抜き取ると、震える声でそこに記された英雄譚の一節を詠みあげた。それは勇気を鼓舞する古の言葉。リオの声に呼応し、詩集の文字が淡い光を放ち始める。光はリオの手を伝い、セナの槍先へと収束した。
呪縛から解放されたセナは、光をまとった槍を力強く握りしめると、再び跳躍した。一閃。グリフィンの喉を貫いた槍は、その核である詠唱石を砕き、怪物は一瞬でインクの染みとなって霧散した。

息を切らす二人の前に、回廊の最深部、巨大な円形の広間が姿を現した。
中央では、フードを目深に被った男が『創世の詩篇』を掲げ、不気味な儀式を行っていた。周囲には黒衣の教団員たちが控え、虚ろなる言葉を詠唱している。彼らの声なき声が、渦を巻いて詩篇に吸い込まれていく。
「やめろ!」
セナが叫ぶが、フードの男――教団の指導者は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、絶望と憎しみが深く刻まれている。
「もう遅い。言葉は悲劇しか生まない。愛を囁き、裏切り、憎しみを紡ぎ、戦争を始める。ならば、初めから無かったことにすればいい。この詩篇を破壊し、世界を完全なる沈黙に還すのだ」
指導者が手をかざすと、足元から無数の『虚ろなる言葉』が黒い奔流となって二人を襲った。セナが槍で薙ぎ払うが、文字は実体を持たず、彼女の鎧をすり抜けて精神を直接攻撃する。
「ぐっ…あ…」
セナの口から声が奪われ、瞳から光が消えていく。リオにも黒い文字がまとわりつき、思考が白く染まっていく。これまで読んできた物語も、セナとの記憶も、全てが意味のない記号に変わっていく。
絶望的な沈黙。
だが、その時。リオの脳裏に、一つの疑問が浮かんだ。
(どうして…どうしてこの文字には、何の『感情』も無いんだ…?)
彼が読んできた全ての文字には、書き手の喜びや悲しみ、インクに込められた想いが宿っていた。だが、この『虚ろなる言葉』は、どこまでも空っぽだった。ただ、そこにあるだけの記号。感情を喰らうのではなく、感情が無いからこそ、他の感情を塗りつぶすだけの、空虚な存在。
ならば。
感情で、想いで、魂で、この空虚を上書きすればいい。
リオは、失いかけた意識の全てを集中させた。世界で一番大切な、守りたい存在。彼女と交わした何気ない会話。ぶっきらぼうな優しさ。共に危険を乗り越えた記憶。その全てを、たった一つの音に乗せる。
喉が張り裂けんばかりに、彼は叫んだ。

「セナーッ!」

それは魔法の詠唱ではなかった。ただ、相棒の名を呼んだだけの、魂からの叫びだった。
その瞬間、リオの全身から金色の光がほとばしった。光は奔流となり、広間を覆っていた『虚ろなる言葉』を、まるで夜明けの光が闇を払うように消し飛ばしていく。
黒い呪縛から解放されたセナが、驚愕に目を見開く。教団の指導者は、そのあまりに純粋な「想い」の光に打たれ、膝から崩れ落ちた。彼を縛り付けていた憎しみの仮面が砕け、そこにはただ涙を流す一人の男の顔があった。
『創世の詩篇』は、主を失って静かに床に落ちた。

アイトリアに朝陽が差し込む頃、二人は大書庫への帰路についていた。
「まさか、あんたに助けられるとはな」
ぶっきらぼうに言うセナの横顔は、少しだけ赤い。
「僕も驚いています。でも、分かったんです。どんなに凄い魔法の言葉より、誰かを想うたった一言の方が、ずっと強いって」
リオははにかみながら、眼鏡の位置を直した。彼の瞳には、もう不安の色はない。
セナはふっと笑うと、空を指さした。
「ま、たまには悪くない。さて、見習い。次は何を読む?どうせまた、厄介な物語が私たちを待ってるんだろう?」
その言葉は、新たな冒険の始まりを告げる、力強いプロローグだった。
雲海を渡る風が、二人の紡ぐ新しい物語の最初のページを、優しくめくっていった。

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