寂静のカンタータ

寂静のカンタータ

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***第一章 音の消える夜***

霧の街、アストリア。その名は「星々の涙」を意味するという。年間を通して湿った空気に包まれたこの街は、石畳を濡らす霧雨と、古い音楽院から流れる旋律で出来ていた。俺、リアムもその旋律を紡ぐ一人だ。リュート奏者として、指先の技術なら誰にも負けない自負があった。複雑なパッセージも、目にも留まらぬアルペジオも、俺の指は水が流れるように正確に奏でることができる。

だが、評価はいつも同じだった。「完璧だ。しかし、魂が聞こえない」。審査員の冷ややかな言葉が、コンクールのたびに俺の胸に突き刺さる。完璧な演奏は、完璧に空虚だった。まるで精巧に作られた鳥籠のようだ、とある師は言った。美しいが、命の歌声が響かない、と。焦燥が霧のように心を覆い、俺は毎夜、自分の才能の限界という見えない壁に爪を立てていた。

その夜も、俺は下宿の屋根裏部屋でリュートを抱えていた。窓の外では、街灯の光が濃い霧に滲んでいる。苛立ちをぶつけるように、超絶技巧を要する練習曲を弾き始めた。弦を弾く指先に力がこもる。だが、何かがおかしかった。

音が、ない。

いや、正確には、鳴ったはずの音が、その瞬間に空気に吸い込まれるように消えていくのだ。リュートの胴がかすかに震え、弦が揺れる感触は指にある。しかし、響くべき音が生まれる前に掻き消える。まるで、音の亡霊を奏でているかのようだった。

混乱し、指を止める。部屋の静寂が耳に痛い。階下から聞こえる家主のいびきも、遠くで鳴る教会の鐘の音も、普段通りだ。俺はもう一度、ゆっくりと一本の弦を弾いた。「ポーン」という澄んだ音が、一瞬だけ生まれ……そして、ふっと、ロウソクの火が吹き消されるように途絶えた。

その時だった。視界の隅、開け放した窓の向こうに、揺らめくものが見えた。それは陽炎のようでもあり、真水に落ちたインクのようでもある、半透明の影。定まった形はなく、ただゆらゆらと宙に浮かんでいる。恐怖よりも先に、強烈な違和感が俺を襲った。他の音には一切干渉せず、俺のリュートの音だけを、まるでご馳走のように「食べて」いる。

その非現実的な光景を前に、俺は息を呑んだ。アストリアの深い霧が生んだ幻覚か。それとも、俺の心が奏でる空虚が、ついに形を持って現れたのだろうか。その日から、俺の音楽は、たった一人の奇妙な聴衆を得ることになった。

***第二章 寂しがりな影***

影は、夜ごと現れた。俺がリュートを手に取ると、どこからともなく窓辺に現れ、静かに演奏を聴いている。いや、聴いているのではない。貪っているのだ。俺はそれを「シルフ」と名付けた。風の精霊の名を借りたのは、その捉えどころのない姿が、風に舞うヴェールのように見えたからだ。

はじめは恐怖と怒りでシルフを追い払おうとした。窓を閉め、カーテンを引いた。しかし、シルフはガラスも壁も通り抜け、気づけばリュートのすぐそばで揺らめいている。まるで、音の源泉に惹きつけられる虫のように。諦めた俺は、ある種の実験を始めた。どんな音を好むのか。どんな旋律に反応するのか。

速く、技巧的な曲を弾いても、シルフはただ淡々と音を喰らうだけだった。しかし、ある夜、ふと故郷を思い出して、幼い頃に母が口ずさんでいた物悲しい子守唄を爪弾いた時、シルフの様子が変わった。その半透明の体が、ほんの少しだけ輪郭を濃くし、満足したかのように大きく揺らめいたのだ。

それから俺の演奏は変わった。コンクールのためでも、聴衆のためでもない。ただ一人の、正体不明の影のため。シルフが喜ぶ顔(顔などないのだが)を見たくて、俺は自分の心の奥底に沈殿していた感情を探るようになった。孤独、不安、誰にも理解されないという寂しさ。これまで蓋をしてきた負の感情を、震える指で弦に乗せる。

すると、奇妙なことが起きた。俺の音楽は、魂を得始めたのだ。シルフに捧げる悲しみの旋律は、皮肉にもこれまでになく深く、豊かで、人の心を揺さぶる響きを持っていた。ある日、中庭でシルフのために練習していると、通りかかった音楽院の教授が足を止め、涙ぐみながら言った。「リアム君……君はいつの間に、そんなにも美しい悲しみを奏でられるようになったんだ」。

俺はシルフを恐れなくなっていた。むしろ、彼は俺が本当の自分を表現するための、唯一の理解者のように思えた。彼は俺の悲しみを喰らい、その代わりに、俺の音楽に命を吹き込んでくれる。夜ごと続く奇妙なセッションは、俺たちだけの秘密の儀式だった。俺の空虚な鳥籠から、ようやく生まれたての歌声が響き始めたのだ。だが、その歌声はあまりにも物悲しかった。

***第三章 忘れられたレクイエム***

俺の評判は、霧が晴れるようにアストリアの街に広がっていった。かつて「魂がない」と評されたリュートは、「聴く者の心を抉る」とまで言われるようになった。だが、名声が高まるにつれ、俺の心には新たな問いが生まれていた。シルフとは、一体何者なのだろうか。

俺は音楽院の古文書館に通い詰めた。埃っぽい羊皮紙の匂いの中、アストリアに伝わる伝承や奇譚を読み漁る。そして、ついに一冊の古びた書物の中に、「寂静のシルフ」という記述を見つけ出した。

『それは人の形をした哀しみ。世界に満ちる、忘れられた悲嘆、声にならぬ慟哭を喰らうものなり。シルフは悲しみを浄化し、世界から過剰な哀しみを拭い去る。だが、その存在は、最も深い悲しみに囚われた魂が転じた姿であるともいう……』

最も深い悲しみに囚われた魂。その一文が、俺の胸に重くのしかかった。さらに調査を進めると、百年前の音楽院の記録に、ある一人の天才音楽家の名が記されていた。エリアス・フォンティーヌ。彼は、街を襲った熱病で最愛の妻と子を同時に失い、その絶望から「未完のレクイエム(鎮魂歌)」を作曲していたが、完成を前にして忽然と姿を消したという。

その瞬間、すべてのピースが繋がった。雷に打たれたような衝撃が全身を貫く。シルフは、エリアスの魂そのものなのだ。彼は、愛する者を悼むレクイエムを完成させられず、自らの悲しみを昇華できないまま、この街を彷徨う魂となった。そして、忘れられた悲しみを喰らう存在となり、同じように悲しみを抱える者の前に現れるのだ。

ではなぜ、俺の前に?

答えは、俺自身が誰よりも知っていた。ずっと目を背けてきた、自分自身の過去。俺は幼い頃、馬車の事故で両親を一度に亡くしていた。親戚の家を転々とし、いつしかその悲しみを心の奥底に封印し、感情を表に出すことをやめてしまった。リュートの技術だけを磨き、心を空っぽにすることで、自分を守ってきたのだ。

俺の音楽に魂がなかったのではない。俺が、自分の魂の核である「悲しみ」から逃げ続けていただけだ。その封印された深い悲しみの匂いが、同じ絶望を知るエリアスの魂を、百年の時を超えて呼び寄せたのだ。

窓の外で、シルフが静かに揺らめいていた。彼は、俺の悲しみを喰らう怪物などではなかった。彼は、俺と同じ痛みを抱え、救いを求める、孤独な魂だったのだ。俺が見つめると、シルフはまるで応えるかのように、ひときわ大きく、寂しげに揺れた。

***第四章 寂静のカンタータ***

エリアスの「未完のレクイエム」の楽譜は、古文書館の奥深くに眠っていた。黄ばんだ五線譜に並ぶのは、絶望そのものを音にしたような、暗く、救いのない旋律。これを完成させることが、彼を解放する唯一の道だと直感した。

だが、俺はただレクイエムを完成させるつもりはなかった。鎮魂歌は、死者のための歌だ。しかし、エリアスも、そして俺も、まだ生きている。俺たちの魂に必要なのは、終わりではなく、始まりの歌だ。悲しみと共に、それでも生きていくための力強い歌だ。

俺は数日かけて、レクイエムを再構築した。エリアスの絶望的な旋律を冒頭に置き、そこに俺自身の両親を失った悲しみ、孤独だった日々の記憶を重ねた。そして、シルフと出会ってからの奇妙な友情、音楽を通して再び感情を取り戻した小さな喜びを、希望の光が差し込むような旋律として織り込んでいった。それはもはやレクイエムではなかった。悲しみと希望、絶望と再生が対話し、共に高みへと昇っていく、壮大な「カンタータ(交声曲)」となっていた。

満月の夜。俺はアストリアの中央広場に、一人で立っていた。リュートを構え、深く息を吸う。すると、約束したかのように、シルフが月光の中にすっと姿を現した。その姿は、いつもよりずっと濃く、はっきりと見えた。

俺は指を弦に置いた。そして、「寂静のカンタータ」を奏で始めた。

第一音は、エリアスの絶望。広場の空気が凍りつくように冷える。シルフが苦しげに身をよじる。第二音は、俺の悲しみ。霧が渦を巻き、過去の記憶がフラッシュバックする。だが、俺は弾き続けた。逃げずに、すべての痛みを音に変える。

やがて曲調が変わる。暗闇の中に、小さな光が灯るような、柔らかなアルペジオ。それは、シルフと過ごした夜の記憶。俺の音楽に命をくれた、奇妙な友への感謝。すると、音の一つ一つが光の粒子となり、シルフを優しく包み込み始めた。

シルフの苦悶の揺らめきが、次第に安らかなものへと変わっていく。その半透明の体は光を浴びて、徐々に人の形を取り戻し始めた。白髪の、穏やかな老人の姿――エリアスの幻影だった。

クライマックス、俺は持てる全ての感情を込めて、力強い希望の和音を掻き鳴らした。それは、悲しみを消し去るのではなく、抱きしめて未来へ向かうという決意の雄叫びだった。

演奏が終わった瞬間、エリアスの幻影は、満ち足りた表情で俺に深く頷きかけた。その目には涙が浮かんでいたように見えた。そして、彼は光の粒子となってふわりと舞い上がり、月へと吸い込まれるように消えていった。

彼の魂が解放されるのと同時に、俺の心に長年巣食っていた悲しみの澱も、堰を切ったように涙となって流れ落ちた。

すべてが終わった後、広場には完全な静寂が訪れた。しかし、それは空虚な沈黙ではない。悲しみも喜びも、すべてを受け入れた、満たされた静寂だった。霧が晴れた夜空には、アストリアの名のごとく、星々が涙のように煌めいていた。

俺はもう、自分の音楽が空っぽだとは思わない。俺のリュートは、これから多くの人の孤独に寄り添い、その魂を癒やすだろう。俺は天を仰ぎ、相棒となったリュートを静かに抱きしめた。音のない世界に、確かに響くカンタータが、俺の心の中で鳴り続けていた。

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