雲海を切り裂き、風詠鳥(かざよみどり)の背に乗ってカイが目指すのは、「沈黙の谷」と呼ばれる禁足の浮遊島だった。そこは、かつてあまりに強力な音の魔法が暴走し、時そのものが凍りついたと伝えられる場所。彼の肩で、羽の生えた小さな相棒、リラが不満げに鳴いた。
「カイ、本当にこんな気味の悪い場所にお宝があるのか? 静かすぎて耳がおかしくなりそうだ」
「静かだからいいんだ。余計な音がなければ、聴こえるはずだから」
カイには、探し求めるものがあった。それは、幼くして命を落とした妹が最期に口ずさんでいた、不完全なメロディ。失われた「古謡」の一節だと、彼は信じていた。
谷の中心に降り立つと、空気が氷のように肌を刺す。巨大な水晶のような鉱石――音を力に変える「響晶石」が、輝きを失って点在していた。カイは目を閉じ、意識を研ぎ澄ます。あらゆる雑念を払い、世界の根源に流れる微かな律動に耳を傾けた。
すると、聴こえた。
風の音も、生き物の気配もない完全な静寂の底から、糸のようにか細い旋律が響いてくる。
「…あった」
カイは、妹の記憶と、今聴こえる旋律を重ね合わせ、そっと歌い始めた。それは誰にも教わったことのない、魂の奥底から湧き出るような歌だった。彼の声に呼応し、足元の地面に刻まれた紋様が淡い光を放ち始める。やがて、巨大な岩壁が轟音とともに割れ、隠されていた遺跡への入り口が姿を現した。
遺跡の奥は、巨大なドーム状の空間になっていた。中央には、天を突くほどの巨大な響晶石が鎮座し、その表面には無数の古代文字がびっしりと刻まれている。カイが探していた古謡の全文だった。
「これだ…! これさえあれば…」
カイが感極まったその時、背後から冷徹な声が響いた。
「そこまでだ、野良の音使い。その『不協和音』は我々、調律ギルドが管理する」
振り返ると、純白の制服に身を包んだ一人の青年が立っていた。ギルドの若きエリート、ゼノン。その手には、音を精密に制御する銀の音叉が握られていた。
「ゼノン…!」
「その歌は、世界を乱す禁忌の旋律。お前のような未熟者が扱っていいものではない。渡してもらおうか」
ゼノンは、秩序こそが世界の安寧を守ると信じていた。管理されない野良の音使い、特に古謡を求めるカイの存在は、彼にとって許しがたい脅威だった。
カイは首を横に振った。「これは破壊の歌じゃない。妹が遺した…希望の歌だ」
彼は決意を固め、巨大な響晶石に向き直り、再び歌い始めた。今度は、そこに刻まれた全文を。
水晶のように澄み渡りながらも、どこか哀しみを帯びたカイの歌声がドームに響き渡る。リラがそれに共鳴し、歌声を増幅させた。
「愚かな!」
ゼノンが音叉を振るう。硬質で統制された「秩序の音」が、カイの歌を打ち消そうと襲いかかる。
二つの相反する音が激突し、空間がガラスのように軋み、火花を散らす。ゼノンの音は完璧に計算され、揺らぎがない。だが、カイの歌には感情があった。哀しみ、祈り、そして希望。その魂の叫びが、次第にゼノンの秩序を侵食していく。
そして、古謡がクライマックスに達した瞬間、世界の真実が姿を現した。
カイの歌は、破壊の歌ではなかった。それは、この浮遊世界を創り出したとされる「創生の歌」そのものだったのだ。世界の調和を保つための、根源のメロディ。
逆に、ギルドが掲げる「秩序」こそが、世界の律動を無理やり押さえつけ、少しずつ歪めていた。凍りついた「沈黙の谷」は、その歪みの象徴だった。
カイの歌声に呼応し、中央の巨大な響晶石が七色の眩い光を迸らせる。凍りついていた谷の時間が、ゆっくりと動き始めた。枯れた植物が芽吹き、風が生まれ、失われた輝きを取り戻した小さな響晶石たちが、鐘のように共鳴し始める。
世界が、再び呼吸を始めたのだ。
ゼノンは、目の前で起こる奇跡に愕然とし、手から音叉を落とした。自らが信じてきた正義が、実は世界を緩やかに殺していたという事実に打ちのめされていた。
歌い終えたカイの目の前に、光の粒子が集まり、幼い妹の姿がおぼろげに浮かび上がった。彼女はカイに優しく微笑みかけると、満足したように光の中へ溶けて消えていった。カイの頬を、一筋の涙が伝う。
「…ありがとう」
彼は、ようやく心の安らぎを得た。
カイとリラは、生まれ変わった谷を後にした。ゼノンは、ただ молча、彼らの背中を見送るだけだった。
「カイ、これからどうするんだ?」リラが尋ねる。
カイは雲海を漂う無数の浮遊島々を見渡し、晴れやかな顔で答えた。
「探しに行こう。この世界のどこかに眠っている、まだ誰も知らない歌を。この世界が、本当の音楽を取り戻すまで」
彼の新たな旅が、今、始まった。世界はまだ、美しい歌で満ちている。
響晶のソナタ、あるいは失われた創生の歌
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