天空の羅針盤

天空の羅針盤

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雲海に浮かぶ島々が世界のすべて。それが、地図職人の一族に生まれた少女、エリアが知る常識だった。祖父が亡くなって一月が経った嵐の夜、彼女は屋根裏部屋で古びた木箱を見つけた。中に入っていたのは、埃をかぶった航海日誌と、掌に収まるほどの奇妙な羅針盤。普通の羅針盤が北を指すのに対し、その鈍い銀色の針は、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、地図にない一点を指し示し続けていた。

「『アヴァロン』への道標。世界の始まりの場所だ」

祖父が日誌に遺した最後の言葉。エリアの心に、抑えきれない冒険への渇望が火を灯した。

翌朝、エリアは愛用の小型飛行船《カモメ号》に乗り込んでいた。帆に風を受け、慣れ親しんだ故郷の島がみるみる小さくなっていく。頼りは、計器盤に固定した祖父の羅針盤だけだ。

旅は想像を絶する困難に満ちていた。雷鳴が轟く積乱雲の迷宮「雷神の回廊」を抜け、船体を丸呑みにしようと襲い来る巨大な空のクジラ「雲海獣(リヴァイアサン)」の群れから必死で逃れた。未知の空域図を羊皮紙に描き込んでいくたび、エリアは恐怖と同じくらい、胸が沸き立つような興奮を感じていた。

そんな彼女の前に、漆黒のドクロを船首に掲げた巨大な空賊船が現れた。
「小娘!その羅針盤は『黒曜石のジャック』様がいただく!」
空賊の頭領が、拡声器を通してがなり立てる。無数の砲門が《カモメ号》に向けられ、エリアは咄嗟に舵を切った。

「誰が渡すもんですか!」

空中戦が始まった。小型船の機動力を活かし、砲弾の雨を紙一重でかわす。エリアは雲の中に巧みに身を隠し、岩が乱立する危険な浮遊島群へと誘い込んだ。追跡に気を取られた空賊船が岩に激突する轟音を背中で聞きながら、彼女は全速力でその空域を離脱した。

幾日も飛び続けた果てに、ついに羅針盤の針が真下を指して静止した。眼下には、途方もなく巨大な渦を巻く雲海があるだけだ。
「まさか……この中に?」
覚悟を決め、エリアは《カモメ号》の機首を下げて雲の中へ突っ込んだ。凄まじい風圧と視界を奪う純白の闇。永遠に続くかと思われた落下を抜けた瞬間、信じられない光景が広がった。

そこは、外界から完全に隔絶された巨大な空洞だった。中心には天を突くほど巨大な一本の樹が聳え立ち、その根が淡い光を放ちながら、無数の島々を空中に繋ぎ止めているかのように見えた。ここが、伝説の浮遊島アヴァロン。

エリアが呆然と島に着陸すると、大樹の根元から一体の機械人形(オートマタ)が静かに現れた。水晶の瞳がエリアを捉える。
「待っていました、新たな『地図職人』。その羅針盤は、資格ある者を示す『招待状』です」

オートマタは語った。この世界は、この大樹の力によって維持されていること。そして、その力が少しずつ衰え始めていること。祖父もかつてこの島を訪れ、世界の危機を知りながらも寿命が尽きたこと。

「あなたのお祖父様は、次代の希望を未来に託しました。世界のバランスを保つため、失われた空路を再び繋ぎ、新たな浮力を生む島々を見つけ出すのです。それが、あなたの使命」

手にした羅針盤が、再びカチリと音を立てた。針は今、アヴァロンからさらに未知の方向を指している。それは世界の危機を示すと同時に、エリアがこれから描くべき、新たな地図の始まりを示していた。

「私の冒険は……まだ始まったばかりなんだ!」

エリアは空を見上げた。無限に広がる雲海の先には、まだ誰も見たことのない世界が待っている。ワクワクするような、途方もない旅の始まりだった。

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