涙晶(るいしょう)のソナタ

涙晶(るいしょう)のソナタ

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第一章 濁った宝石と歌わない姫

人々が強い感情を抱くと、その雫が宝石となってこぼれ落ちる世界。僕らはそれを「涙晶(るいしょう)」と呼んだ。喜びは陽光を閉じ込めたような黄玉に、悲しみは月影を宿したような青玉に、そして怒りは燃え盛る炎のような赤玉に変わる。純粋で強い感情ほど、涙晶は大きく、美しく輝き、街を照らす灯りや機械を動かす動力源として、我々の生活に不可欠なものとなっていた。

そんな世界で、僕は異端だった。カイ、十七歳。僕が流す涙晶は、いつも泥水のように濁っていた。様々な感情が混ざり合い、不格好に歪んだそれは、何の価値もない「屑石」として扱われる。幼い頃、僕が流した一つの大きな涙晶が、家族を不幸に巻き込んだ――そう聞かされて以来、僕は感情を表に出すことを極端に恐れるようになった。心を固く閉ざし、何事にも動じない鉄仮面を被る。それが、僕がこの世界で生き抜くための唯一の方法だった。

僕が住む街、セレニタスの中央には、白亜の塔がそびえ立っている。そこには街で最も美しい涙晶を生み出す「歌姫」リラが住んでいた。彼女の歌声は人々の心を揺さぶり、極上の「歓喜の涙晶」を無数に生み出させた。その輝きは街の生命線であり、リラは聖女のように崇められていた。

その日、街は異様な静寂に包まれていた。冒頭のフックだ。街の広場に設置された光力計の針が、危険水域を示す赤色を指している。理由は一つ。歌姫リラが、三日前から一切歌わなくなり、一つの涙晶も生み出せなくなったのだ。街の灯りは弱々しく瞬き、人々の顔には不安の影が落ちていた。

なぜか、そのリラの世話役に、僕が任命された。理由は「感情の起伏が乏しく、歌姫の心を刺激しないから」だという。長老たちの決定に逆らう術もなく、僕は白亜の塔の重い扉を押し開けた。

塔の最上階、豪奢な調度品に囲まれた部屋の中央に、リラはいた。人形のように美しい顔は感情を失い、その紫色の瞳は虚空を見つめている。僕が声をかけても、彼女は微動だにしない。まるで、心が空っぽになってしまったかのようだった。数日間、僕は食事を運び、部屋を掃除するだけの日々を過ごした。彼女との間に言葉はない。ただ、時折彼女が漏らす、か細い寝息だけが、彼女がまだ生きていることを示していた。

ある夜、僕は彼女の枕元に、小さな濁った石が転がっているのを見つけた。僕が流すものとよく似た、価値のない屑石。それは、僕が昼間、うっかり指を切ってしまい、思わず顔をしかめた時にこぼれ落ちた「痛みの涙晶」だった。彼女はそれを、まるで宝物のようにそっと握りしめて眠っていた。その時、僕は初めて、彼女の完璧な仮面の下に、僕と同じ種類の孤独が潜んでいるような気がした。

第二章 偽りの心、重ねた影

リラとの奇妙な共同生活が始まって一週間が過ぎた。彼女は依然として歌わず、話さず、ただ窓の外を眺めて一日を過ごしていた。しかし、小さな変化があった。彼女は僕が部屋にいる間、僕から目を離さなくなったのだ。その紫色の瞳は、何かを問いかけているようでもあり、探っているようでもあった。

僕は、彼女にかつての自分を重ねていた。人々の期待という名の檻に閉じ込められ、純粋な感情を流すことを強要される日々。その重圧が、彼女の心を壊してしまったのではないか。僕が感情を殺して生きているように、彼女もまた、心を殺すことで自分を守ろうとしているのかもしれない。

「歌わなくても、いいんじゃないか」

ある日、僕は思わず口にしていた。自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。リラの肩が、かすかに震えた。彼女はゆっくりと僕の方へ顔を向け、その瞳から、ぽろり、と一粒の雫がこぼれ落ちた。それは、深い悲しみを湛えた、美しい青玉の涙晶だった。しかし、それはあまりに小さく、弱々しかった。

「歌わなければ…私には、価値がないから」

消え入りそうな声。それが、僕が初めて聞いた彼女の肉声だった。その言葉は、鋭い刃となって僕の胸に突き刺さる。価値のない涙晶しか流せない僕。価値のある涙晶を流すことを強要され、心を失った彼女。僕らは、同じコインの裏表だった。

どうにかして彼女を救いたい。その思いが、僕の中で日増しに強くなっていく。しかし、僕に何ができる? 感情を殺し、濁った屑石しか生み出せない僕に。無力感が、鉛のように僕の身体にまとわりついた。

その様子を見ていた街の長老は、僕に一つの提案をした。「街の東、禁じられた森の奥深くに『心の泉』と呼ばれる場所がある。伝説によれば、その泉の水は、いかなる心の傷も癒すという。リラ様をそこへお連れするのだ」

禁じられた森は、凶暴な獣が棲み、一度入ったら二度と戻れないと噂される場所だ。しかし、僕に選択肢はなかった。リラを救える可能性があるのなら、それに賭けるしかない。僕がそのことを伝えると、リラはこくりと頷いた。彼女の瞳には、ほんのわずかだが、色の光が宿っているように見えた。

僕らは、誰にも告げず、月明かりだけを頼りに街を抜け出した。背後で弱々しく瞬く街の灯りを見ながら、僕はリラの手を固く握りしめた。これから始まる旅が、僕たちの運命を根底から覆すものになるなど、この時の僕には知る由もなかった。

第三章 心の泉の真実

禁じられた森は、噂に違わず険しい場所だった。昼なお暗い木々の間を、僕らは互いを励まし合いながら進んだ。リラは驚くほど芯が強く、弱音一つ吐かなかった。僕が転びそうになれば彼女が支え、彼女が疲れを見せれば僕が背負った。旅を通して、僕らの心は少しずつだが、確かに通い合っていくのを感じていた。

幾多の困難を乗り越え、僕らはついに森の最奥部にたどり着いた。しかし、そこに泉はなかった。代わりに僕らの目の前にあったのは、巨大な洞窟。その奥から、心臓の鼓動のような、地を揺るがす微かな振動と、淡い光が漏れ出していた。

恐る恐る洞窟の中へ足を踏み入れる。そこは、信じられない光景が広がる空間だった。壁一面に、無数の涙晶が埋め込まれ、脈動するように明滅している。そして、その中央に鎮座していたのは、家ほどもある巨大な水晶体だった。それこそが、鼓動と光の源だった。それは生きているかのように、ゆっくりと膨張と収縮を繰り返していた。

「よくぞ参った、カイ」

背後から聞こえた声に、僕らは凍りついた。そこに立っていたのは、街の長老だった。彼の顔には、いつもの温和な笑みはなく、冷たい計算だけが浮かんでいた。

「ここが『心の泉』の正体。そして、この世界の真実を映す場所じゃ」

長老は、脈動する巨大な水晶体を指さした。

「お前たちが『涙晶』と呼ぶもの。あれは感情の結晶などではない。あれは、お前たちの『生命力そのもの』を削って生み出される、命の欠片じゃ」

衝撃に、言葉を失った。生命力…?

「純粋で美しい涙晶ほど、多くの生命力を消費する。リラ様が歌えなくなったのは、心が壊れたからではない。これ以上流せば、その身が滅びてしまうと、魂が悲鳴を上げたからじゃ。自己防衛本能だよ」

長老の言葉が、雷のように僕の頭を打ち抜く。リラの苦しみは、人々の期待に応えるための、命を懸けた献身だったのだ。街の繁栄は、彼女の命を燃料にして成り立っていたのだ。

「そしてカイ、お前についても話さねばなるまい」長老は、冷酷な目で僕を見据えた。「お前の家族が死んだのは、お前の涙晶のせいではない。あの日、お前を守って命を落とした家族の、深い悲しみと愛情…その二つの強大な感情が、幼いお前の中で混ざり合った。そして生まれたのが、この世界で最も強力で、最も危険な『混色の涙晶』じゃ」

長老は続けた。「我々はその力を恐れた。世界を創り変えることも、破壊することもできる力を。だから、我々はお前の記憶に封をし、『お前の涙晶は無価値な屑石だ』と、偽りの情報を植え付けた。お前が自分の力に気づかぬよう、感情を殺して生きるように仕向けたのじゃ」

僕がずっと抱えてきたトラウマ。僕を縛り付けてきた罪悪感。そのすべてが、長老たちの作り上げた巨大な嘘だった。僕の濁った涙晶こそが、複数の感情が混ざり合った、最も人間らしい、本物の涙晶だったというのか。

怒りと、悲しみと、そして騙されていたことへの絶望が、僕の中で渦を巻いた。足元が、世界そのものが、ガラガラと音を立てて崩れていく。

第四章 解放の涙

僕の隣で、リラが息を呑むのが分かった。彼女の瞳が、僕の過去の真実と、自らが置かれていた残酷な運命を理解し、深い絶望の色に染まっていた。

「さあ、リラ様」長老は手を差し伸べる。「もう一度、我々のためにその命を燃やしていただきたい。カイ、お前の『混色の涙晶』の力を使えば、リラ様の生命力を増幅させ、あと数十年は街を安泰にできる」

ふざけるな。

僕の奥底から、これまで抑え込んできた全ての感情が、マグマのように噴き出した。怒り。悲しみ。リラへの愛おしさ。そして、何よりも強い、彼女を守りたいという願い。

「もう、誰にもお前の命を好きにはさせない」

僕はリラを背中に庇い、長老と対峙した。初めてだった。自分の感情を肯定し、それを力に変えようと思ったのは。

「愚かな…」長老が何かを命じようとした瞬間、僕の目から熱いものが溢れ出した。それは、もう濁ってはいなかった。赤、青、黄、そしてこれまで見たこともない無数の色彩が複雑に絡み合い、オーロラのように揺らめく、巨大な一粒の涙晶だった。

僕の生涯で最も大きく、そして最も美しい「混色の涙晶」。

それは洞窟の床に落ちると、凄まじい光とエネルギーを放った。壁に埋め込まれた涙晶たちが一斉に共鳴し、亀裂が走る。巨大な水晶体が甲高い音を立てて砕け散り、洞窟全体が激しく揺れた。長老たちが狼狽するのを尻目に、僕はリラの手を引いて外へと駆け出した。

僕の涙晶が放った力は、街のシステムそのものを破壊した。街の動力源だった涙晶の集積回路は機能を停止し、街を煌々と照らしていた光は、永遠に失われた。

森を抜けると、夜空には満天の星が輝いていた。人工の光が消えたことで、世界が本来持っていた美しさがそこにはあった。街は暗闇に沈み、人々は戸惑い、混乱しているだろう。だが、もう誰も、命を削って偽りの繁栄を支える必要はない。

僕の隣で、リラがそっと僕の手に自分の手を重ねた。彼女の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

「ありがとう、カイ。私の心を、解放してくれて」

彼女の瞳から、ぽろり、と雫がこぼれた。それは宝石にはならず、ただの透明な塩水として、彼女の頬を伝った。僕も、それを見て微笑むと、目尻に温かいものが滲んだ。僕の雫もまた、宝石にはならなかった。

涙晶を生み出す世界は終わった。人々は不便な生活を強いられるだろう。だが、僕らは初めて、本当に自分の心で笑い、泣くことができるようになったのだ。

僕とリラは、手を取り合って、星明りの下をゆっくりと歩き出した。これから二人で、新しい世界を、本当の感情で満たされた世界を生きていく。それは価値を測られることのない、誰のためでもない、僕たち自身のための、ささやかで、しかし何よりも尊い物語の始まりだった。

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