情動花のソラリス

情動花のソラリス

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第一章 触れる熱

水島湊の世界は、ずっと前から、うっすらと灰色がかっていた。グラフィックデザイナーとして色彩を操る仕事をしているというのに、彼自身の内面は、彩度を落とした風景画のように静まり返っていた。原因不明の虚無感。体の芯が、まるで凍てついた川底のように、じんと冷えている。どんな成功も、どんな賞賛も、その氷を溶かすことはできなかった。

そんな湊の日常に、小さな変化が訪れたのは、梅雨の晴れ間のことだった。隣の部屋に住む、植物学者の橘沙月が、申し訳なさそうにドアを叩いたのだ。

「水島さん、すみません。一週間ほど留守にするので、この子を預かっていただけませんか?」

彼女が差し出したのは、エキゾチックな濃紫色の葉を持つ、見慣れない鉢植えだった。艶のある葉脈が、まるで血管のように浮き出ている。

「『情動花(じょうどうげ)』っていう、少し珍しい種類なんです。水をやりすぎず、日当たりの良い場所に」

沙月はそう言って柔らかく微笑んだ。彼女の存在は、この古びたアパートで唯一、湊の心にさざ波を立てるものだった。物静かだが、その瞳の奥には深い森のような知性が宿っている。

その夜、湊は言われた通り、鉢植えをベランダに出した。月光を浴びた濃紫の葉は、昼間とは違う妖しい光沢を放っている。しばらくして、その中心から、閉じていた蕾がゆっくりと開き始めた。絹のような純白の花びらが現れ、甘く、それでいてどこか切ない芳香が夜気と共に流れ込んでくる。

ちょうどその時、出張から戻ったばかりの沙月が、隣のベランダに顔を出した。

「ああ、湊さん。咲いたんですね、綺麗……」

彼女の声は、夜の静寂に溶けるようだった。

「本当に。不思議な花ですね」

湊が応えると、沙月は嬉しそうに目を細めた。「ええ、とても。……湊さん、最近、お疲れじゃないですか? なんとなく、お顔の色が」

不意に核心を突かれ、湊は言葉に詰まった。その時だ。沙月の気遣うような優しい言葉が、音の粒子となって湊の鼓膜を震わせた瞬間、信じられないことが起きた。

体の芯――あの万年雪のように凍てついていた場所から、ぽっ、と小さな火が灯ったのだ。それは物理的な温かさだった。じんわりと、しかし確実に、血の巡りが良くなっていくような、心地よい熱。驚いて沙月を見ると、彼女はただ静かに微笑んでいるだけだ。

「……気のせい、か」

湊は呟いたが、その温もりは消えなかった。生まれて初めて感じる、満たされるという感覚。それは、灰色だった世界に、ほんの一滴、鮮やかな色が落ちた瞬間だった。この温かさの正体も知らず、湊はただ、その奇跡のような感覚にもっと浸っていたいと、強く、強く願った。

第二章 渇望の共生

沙月との関係は、あの日を境に急速に深まっていった。湊が感じたあの不思議な温かさは、一度きりの幻ではなかった。彼女と会い、言葉を交わし、その優しい眼差しを受け止めるたびに、湊の体は心地よい熱に満たされていった。沙月の愛情が、まるで陽だまりのように湊を包み込み、長年彼を苛んできた虚無の氷を、ゆっくりと溶かしていく。

二人が恋人になるのに、時間はかからなかった。初めて彼女の手に触れた時、湊は電流のような熱の奔流に襲われた。沙月の肌から伝わる愛情は、もはや比喩ではなく、生命を維持するためのエネルギーそのもののように感じられた。湊の世界は、情動花の純白のように、沙月の愛情という名の光に照らされ、輝き始めた。仕事のアイデアは次々と湧き、彼のデザインはかつてないほど生命力に満ち溢れ、高い評価を得た。

「湊さんのデザイン、最近すごく変わった。まるで、恋をしているみたいに鮮やか」

クライアントにそう言われ、湊は心の中で頷いた。その通りだ。自分は今、最高の愛を享受している。この温かさこそが「愛」の正体なのだと、彼は確信していた。沙月がそばにいれば、もう何も怖くない。灰色の世界に戻ることは、二度とないだろう。

しかし、幸福の光が強ければ強いほど、その影もまた濃くなる。湊は次第に、沙月からの「供給」なしではいられなくなっている自分に気づき始めた。彼女が研究で学会に出かけ、二日ほど会えなかっただけで、湊の体はあの懐かしくも恐ろしい冷たさに逆戻りした。指先はかじかみ、思考は鈍り、世界は再び色褪せていく。まるで禁断症状だった。

「どうしたの、湊さん。顔色が悪いわ」

帰宅した沙月が心配そうに彼の頬に触れる。その瞬間、待ちわびた熱が流れ込み、湊は安堵の息を漏らした。だが、その安堵はすぐに、より強い渇望へと変わった。もっと、もっと熱が欲しい。この温かさで、僕を完全に満たしてくれ。

その感情は、果たして湊自身のものなのだろうか。それとも、彼の内で何かが、生存本能として叫んでいるのだろうか。境界線は日に日に曖昧になっていった。湊は、より頻繁に沙月に会いたがり、より多くの愛情表現を求めた。無邪気な子供が母親の愛を独占しようとするように。沙月はそんな湊を困ったように笑いながらも、決して拒むことはなかった。彼女の深い愛情が、自分を甘やかし、同時にその渇望を加速させていることに、湊はまだ気づいていなかった。

第三章 命を喰らう花

その日、湊は仕事場で倒れた。体中の熱が急速に失われ、意識が遠のいていく。まるで、ロウソクの火が消える直前のように、全身が急激に冷えていく感覚。連絡を受けた沙月が、血相を変えて駆けつけてきた。

「湊さん!しっかりして!」

朦朧とする意識の中、沙月の声が聞こえる。彼女が必死に湊を抱きしめると、奇跡が起きた。冷え切っていた湊の体に、今まで感じたことのないほど強烈な熱が、奔流となって流れ込んできたのだ。氷が解けるどころか、沸騰するような感覚。みるみるうちに体温が戻り、湊の意識がはっきりしていく。

だが、代償があった。腕の中で、沙月が小さく呻き、ぐったりと力を失っていくのが分かった。

「さつき……?」

湊が呼びかけると、顔を上げた彼女の顔色は、紙のように真っ白だった。額には脂汗が浮かび、唇はかすかに震えている。まるで、生命力を根こそぎ吸い取られたかのように。

「ごめんなさい……湊さん」

沙月の声は、か細く、風に消え入りそうだった。「あなたに……あなたに、この子を感染させたのは、私なの」

彼女の視線が、部屋の隅で静かに咲き続ける、あの純白の情動花に向けられる。

「え……?」

湊の頭は真っ白になった。何を言っているのか、理解が追いつかない。

沙月は、途切れ途切れに真実を語り始めた。彼女は、単なる植物学者ではなく、この『情動花』――正式名称『情動共生体エモーリア・ソラリス』の、日本で唯一の研究者だった。情動花は、その胞子を通じて特定の宿主に感染し、共生関係を結ぶ。宿主は、他者からの強い「愛情」や「好意」といった情動エネルギーを、物理的な熱や生命力として吸収できるようになる。孤独や愛情に飢えた者にとっては、まさに救いのような存在。

しかし、それは残酷な片道通行だった。エネルギーを「与える」側は、自らの生命力を少しずつ削られていく。

「私……私も、感染者なの」と沙月は告白した。「昔、同じように孤独に苦しんでいた恋人がいた。彼を救いたくて、私は自分の愛情を与え続けた。でも、彼の渇望は止まらなかった。そして彼は……私の目の前で、私を『吸い尽くして』……枯れてしまった」

それは、共生ではなく、緩やかな捕食だったのだ。愛情という名の、最も甘美な毒による。

絶望した沙月は、二度と誰にも愛情を与えまいと心を閉ざした。しかし、隣に住む湊の、深い孤独と魂の渇きを感じ取ってしまった。彼の灰色の世界を、どうしても見過ごせなかった。

「あなたを、救いたかった。今度こそ、うまくやれると思った。私がコントロールすれば、あなたを少しだけ温めてあげられるって……。でも、ダメだった。あなたの渇きは、私の想像を……はるかに超えていた」

湊は、愕然として立ち尽くした。自分が感じていた至福の温もり。世界を彩ってくれた愛。その全てが、沙月の命を削って得られたものだったというのか。自分が求めていたのは、純粋な愛ではなかった。沙月の命を燃料とする、醜いエゴイズムの発露だった。

足元から世界が崩れ落ちていく。腕の中の沙月の体は、恐ろしいほどに冷たくなっていた。

第四章 静かな光

罪悪感と絶望が、津波のように湊を飲み込んだ。自分がしてきたことは、愛の名を借りた一方的な収奪だった。沙月を失いたくない。その一心で、湊は震える手で彼女の研究資料を読み漁った。夜を徹して、専門的で難解な論文のページをめくり続けた。

そして、一つの記述を見つけ出す。

『情動共生体は、一方向の献身的な情動エネルギーを最も効率的な栄養源とする。しかし、宿主と対象の間で、見返りを求めない双方向の共感と理解が形成された場合、共生体の活動は著しく低下、もしくは休眠状態に入ることが観察された』

これだ、と湊は思った。自分がすべきことは、ただ一つ。沙月から温もりを「もらう」ことを、やめることだ。彼女を、これ以上「栄養源」として見てはいけない。

その日から、湊の戦いが始まった。沙月に触れることを、意識的に避けた。彼女の優しい言葉に、以前のような熱を期待するのをやめた。体は再び、あの懐かしい冷たさと虚無感に苛まれた。何度も心が折れそうになった。だが、衰弱していく沙月の姿を見るたびに、湊は歯を食いしばって耐えた。

彼は、沙月からの熱を求める代わりに、ただ純粋に彼女のために時間を使った。彼女が好きだと言っていた古い映画を一緒に観て、感想を語り合った。栄養のある食事を作り、黙ってそばで食べた。そして、彼は鉛筆を握り、一枚の絵を描き始めた。それは、温かい陽だまりの中で、穏やかに微笑む沙月の肖像画だった。自分の内側から湧き出る、見返りを求めない、ただ彼女に喜んでほしいという純粋な感情だけを込めて。

季節が巡り、初雪が舞う頃。二人は、冷たい空気に包まれたベランダで、寄り添っていた。湊の体は、もう劇的な温かさを感じることはない。だが、心の奥底には、静かで、しかし確かな温もりが宿っていた。それは、沙月の命を削って得た借り物ではない。恐怖と自己嫌悪を乗り越え、二人の間でゆっくりと育まれた、穏やかで対等な愛の灯火だった。

ふと見ると、沙月の頬に、健康的な血の気が戻っていた。部屋の隅の情動花は、花を閉ざし、まるで深い眠りについているかのようだ。

「湊さん」

沙月が、そっと彼の手に自分の手を重ねた。そこに、かつてのような熱の奔流はない。ただ、愛する人の肌の、確かな温もりだけが伝わってくる。

「ありがとう」

彼女の瞳が、優しく潤んでいた。

湊は、静かに微笑み返した。もう、特別な熱は必要なかった。灰色だった世界は、いつの間にか、淡く優しい色彩に満ちていた。愛とは、奪い合う灼熱の炎ではなく、与え合うことで互いを照らす、静かな光のようなものなのだと。彼は、その光の中で、ようやく本当の意味で満たされている自分を知った。それで、十分だった。

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