忘却の距離

忘却の距離

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第一章 霧が語りかける運命の出会い

その日、高野悠人の日常は、一杯のコーヒーと、一瞬の視線によって決定的に覆された。窓辺の席でノートパソコンを広げていた悠人の視界に、カフェの入り口から入ってきた女性が映る。長く柔らかな黒髪が光を吸い、午後の穏やかな日差しの中で輪郭を際立たせる。彼女の表情はどこか遠くを見つめているようで、その横顔には、触れれば消えてしまいそうな危うい美しさがあった。悠人は、これまで感じたことのない強い引力に吸い寄せられるように、目を奪われた。

「あの……すみません、お隣、空いてますか?」

女性は悠人の隣の席を指差した。その声は、深煎りの豆から立ち上るアロマのように、甘く、そしてどこか切なさを帯びていた。

「え、あ、はい、どうぞ」

悠人は慌てて返事をし、不自然なほど顔を赤らめた。彼女はにこりと微笑み、悠人から一つ席を空けて腰を下ろした。柔らかな髪の毛から、わずかに花の香りが漂う。それは、悠人がこれまで嗅いだことのない、特別な香りだった。

「森宮葉月です。あの、突然すみません。実は、ちょっと面白いことがあって……」

葉月はそう切り出し、悠人の目をまっすぐに見た。悠人の心臓は不規則なリズムを刻み始める。

「高野悠人です。面白いこと、ですか?」

「はい。私、誰かと少し離れると、その人の顔がぼやけて、名前とか、声とか、なんだか、薄れていってしまうみたいなんです。また近づくと、元に戻るんですけど。だから、誰かと深く関わるのが苦手で……」

葉月は、困ったように眉を下げて笑った。その話はあまりにも荒唐無稽で、悠人は作り話だろうと思った。だが、彼女の瞳の奥に宿る影が、それが嘘ではないことを雄弁に物語っていた。

「まさか、そんな……」

悠人は言葉を失い、無意識のうちに席を立って、彼女から数歩離れた。その瞬間、信じられないことが起こった。葉月の輪郭が、まるで霧の中に消えゆくように曖昧になり、その美しい顔立ちが判別できなくなったのだ。声も、先ほどまで鮮明に聞こえていたカフェのBGMも、遠く霞んでいく。まるで、五感が鈍っていくような感覚。心の中にぽっかりと穴が空き、たった今彼女と交わした会話の内容すら、記憶の深淵に沈んでいくようだった。

「ま、待って!」

悠人は思わず叫び、慌てて葉月の隣の席に戻った。すると、驚くほど急速に、葉月の姿は鮮明さを取り戻し、カフェの騒音もはっきりと耳に届くようになった。失われかけていた記憶が、滝のように流れ込んでくる。

葉月は、どこか諦めたような、それでいて少しだけ期待に満ちた目で悠人を見ていた。

「やっぱり、そうだったんですね……。あなたも、私と同じみたい」

悠人の心臓は、恐怖と、得体の知れない高揚感で大きく脈打った。それは、二人の間に奇妙な、しかし決定的な運命が始まった瞬間だった。世界は、この日から色を変えた。

第二章 隣り合わせの日常、隣り合わせの孤独

その日を境に、悠人と葉月の奇妙な同棲生活が始まった。互いから十メートル以上離れると、記憶が薄れていく。それは呪いであり、抗いようのない運命だった。悠人は彼女に惹かれていたし、葉月もまた、悠人との間に特別な繋がりを感じていた。二人はカフェを出て、葉月の自宅へと向かった。隣り合わせで歩く道のりでは、互いの記憶が鮮明に保たれた。

アパートの一室。生活はすべて二人で共有された。シャワーを浴びる間、食事の準備をする間、眠る間。常にどちらかがもう一方の存在を感じられる距離にいる必要があった。悠人は仕事も在宅勤務に切り替え、葉月も在宅でできる仕事を見つけた。

最初は戸惑いと不自由さでいっぱいだった。仕事中にトイレに行くのも、葉月を伴うか、彼女が扉越しに呼びかけ続ける必要があった。夜、寝返りを打って距離が離れそうになるたび、互いの名前を囁き合い、手を繋ぎ直した。

しかし、その不自由さの中で、二人の絆は想像以上に深まっていった。言葉を交わすよりも先に、互いの感情を察するようになっていた。朝、葉月が淹れるコーヒーの香り。夜、悠人が作る温かい料理。触れ合う手の温もり。視線が交錯するたびに、忘れ去られることのない愛の確証を求めた。

「ねえ、もしこの現象がなかったら、私たちはこんなに近くにいることはなかったのかな」

ある日の夕食後、葉月が膝を抱えて言った。窓の外では、街の灯りがキラキラと瞬いている。

「そうかもな。でも、俺は、この現象があったから、君と出会えて、こんなにも深く愛し合えているんだと思う」

悠人は葉月の髪を優しく撫でた。不自由な生活ではあったが、その制約が二人の世界を限定し、より濃密なものにしていたのも事実だった。

それでも、時折、募る孤独があった。友人との交流は途絶え、家族とも距離を置かざるを得ない。葉月は過去の友人の話をするたび、寂しげな目をしていた。「彼らの顔が、もう、霞んでしか見えないの。声も、もう思い出せない」。自分以外の誰の記憶も薄れていく中で、悠人の存在だけが、葉月の世界を形作っていた。そして、それは悠人にとっても同じだった。

二人は、この現象の謎を探った。インターネットの古い掲示板や、地域に伝わる言い伝え。様々な情報に当たったが、確たる答えは見つからない。ただ、古代の文書に、特定の魂が寄り添うことで互いの存在を維持するという、詩的な記述を見つけただけだった。それは、二人の愛がもたらす奇跡だという、漠信に近い希望を与えてくれた。

第三章 病が暴く真実の影

ある日、葉月に異変が起こった。これまでならば、悠人が少し離れても、すぐに記憶は回復したはずなのに、その日は違った。悠人が玄関までゴミを捨てに行った数分間、葉月の顔ははっきりと見えなくなり、名前を呼んでも反応が鈍かったのだ。悠人が慌てて戻ると、彼女は虚ろな目で宙を見つめていた。

「……悠人?どうしたの?」

その言葉は、まるで初対面であるかのような響きを帯びていた。悠人の心臓が、冷たい氷に包まれたかのように収縮する。

「葉月、どうしたんだ?俺だよ、悠人だよ」

「あ……ああ、ごめん。なんか、一瞬、ぼーっとしてて……」

葉月はいつものように微笑んだが、その瞳の奥には、確かな動揺が揺れていた。

その出来事を境に、葉月の記憶の定着は悪化の一途を辿った。悠人が隣にいても、彼女は会話の内容を忘れ、数分前の出来事すら思い出せないことが増えた。不安に駆られた悠人は、インターネットで必死に情報を探した。そして、ある一つの病名に辿り着く。進行性の稀な神経変性疾患。それは、記憶を司る脳の領域が徐々に破壊されていく病気だった。

「葉月……もしかして、この現象は……」

悠人が震える声で切り出すと、葉月は諦めたようにうつむいた。

「知ってたの?」

「うん……少し前から、気づいてた。これは、私が昔、子供の頃に事故で頭を打った後遺症で、徐々に進行してるって、親から聞いてたの。でも、まさか、こんな形で現れるなんて思わなかった」

葉月の声はか細く、今にも消え入りそうだった。

「あなたと出会ってから、この症状は少し落ち着いていた気がしたの。あなたが傍にいてくれると、まるで私の脳があなたにシンクロして、記憶が安定するみたいだった。だから、これは私たちだけの特別な運命だと思ってた」

悠人の心は、音を立てて崩れ去った。愛が生み出した奇跡ではなかった。それは、葉月の病気が一時的に緩和されていたに過ぎない、残酷な真実だった。彼の存在は、彼女の記憶を繋ぎ止める、一時的な「薬」でしかなかったのだ。

そして、その「薬」も、もはや効き目が薄れてきていた。

数日後、葉月の主治医からの電話で、その病気が急速に進行していることが判明した。もう、悠人が近くにいても、記憶が完全に保たれることはないだろうと告げられた。その言葉は、悠人の心に、氷の刃を突き立てるようだった。二人の間にあった「忘却の距離」は、もはや物理的な距離ではなく、葉月の記憶そのものに内在する、抗いがたいものとなっていた。彼らの「運命」は、愛ではなく、病が織りなす悲劇だった。

第四章 記憶なき未来への選択

真実を知ってからの日々は、絶望と向き合う試練の連続だった。葉月は、悠人が目の前にいても、彼を認識できない時間が増えていった。「あなたは誰?」「ここ、どこ?」──そう問いかける彼女の瞳は、まるで初めて出会った日のように、しかし、以前とは違う虚ろな光を宿していた。悠人は、彼女の記憶の中で自分が消えゆくことを、ただ傍で見ていることしかできなかった。

ある夕暮れ時、窓から差し込む赤い光が部屋を満たしていた。葉月は、ソファに座る悠人の隣にぴったりと寄り添い、その手をぎゅっと握った。彼女の目には、まだ悠人を認識している明確な光があった。

「悠人……お願いがあるの」

葉月の声は、力なく震えていた。

「何でも言ってくれ」

「私から、離れて。私があなたを完全に忘れてしまう前に、あなたは自由になってほしい」

悠人は絶句した。彼の心の中で、激しい嵐が吹き荒れる。愛する人の記憶を繋ぎ止められなくなった今、彼女の傍にいることの意味は何なのだろう。彼女が自分を忘れても、自分は彼女を愛し続けられるだろうか。だが、彼女の願いは、彼を突き放すのではなく、彼の未来を案じる、究極の愛の言葉だった。

「嫌だ……俺は、君の傍にいたい。君が俺を忘れても、俺は君を愛し続ける」

悠人は葉月の手を握り返し、懇願するように言った。

「でも、それは、あなたにとって、あまりにも辛いことよ。私が、あなたを傷つけるだけになってしまう。あなたが私を覚えているうちに、新しい未来を、生きてほしいの」

葉月の目から、一筋の涙が流れ落ちた。その涙は、彼女の心の奥底に残された、悠人への深い愛の証だった。

何日も、悠人は眠れない夜を過ごした。彼女の願いを受け入れることは、彼女への裏切りではないか。しかし、彼女の望む「自由」を与えることこそが、今、彼にできる唯一の愛の形なのではないか。彼の内面で、自己犠牲と、真の愛の定義がせめぎ合った。

そして、悠人は決断した。葉月の願いを受け入れることを。

二人は、残された最後の時間を、互いの記憶が完全に消え去るその時まで、慈しむように分かち合った。思い出のカフェに行き、出会った日のことを語り合った。公園で手を繋ぎ、夕日を眺めた。葉月の言葉は途切れ途切れになり、悠人の顔も、時折、彼女の記憶から消えかけた。しかし、その瞬間、彼女は悠人の手を強く握り、まるで魂の奥底で彼を覚えているかのように、微笑んだ。

別れの日。葉月は、わずかに残された記憶で、悠人に精一杯の笑顔を見せた。

「ありがとう、悠人。あなたに出会えて、本当に幸せだった。さようなら」

その言葉を最後に、悠人は葉月の家を後にした。振り返ることはできなかった。振り返れば、彼女の記憶から自分が完全に消えてしまうような気がしたからだ。彼は、愛する人の記憶を繋ぎ止められない無力感と、彼女を自由にするという苦渋の選択を抱え、ただ、前へと進んだ。

第五章 魂が覚えている愛の残像

悠人の日常は、葉月と出会う前と同じように、静かで平凡なものに戻った。しかし、彼の心は決して元には戻らなかった。街の喧騒、カフェのコーヒーの香り、夕焼けの色。あらゆるものが、葉月との記憶と結びつき、彼の心に深く刻まれていた。彼は、日記をつけ始めた。葉月との日々、彼女の笑顔、声、香りを、文字として留めておきたかったのだ。いつか自分も、彼女の記憶を失ってしまうかもしれないという、漠然とした恐怖に抗うかのように。

記憶が薄れることの恐怖は、彼から葉月を奪った。だが、その喪失が、彼の中に消えることのない愛の感情を深く根付かせた。彼はもう、恋愛に臆病な青年ではなかった。愛することの尊さ、そして、それがどれほど脆く、儚いものであるかを知った。彼の心には、名前も顔も曖昧な「愛した人」の温かい残像が、永遠に宿り続けていた。

数年の月日が流れた。悠人は、葉月と出会ったあのカフェに、時折足を運んでいた。そこには、彼女との思い出の断片が、まるで香りのように漂っているような気がしたからだ。ある日の午後、いつものように窓辺の席で、思い出に浸っていた悠人の視界に、一人の女性が飛び込んできた。長く柔らかな黒髪が光を吸い、午後の穏やかな日差しの中で輪郭を際立たせる。その横顔は、触れれば消えてしまいそうな危うい美しさがあった。

彼女は、悠人の隣の席に座った。悠人は息をのんだ。彼女は、あの頃の葉月と、何も変わっていなかった。いや、違う。彼女の瞳には、かつて悠人だけを映していた深い愛の光はなかった。ただ、無垢な、しかしどこか寂しげな輝きがあるだけだった。彼女は悠人の存在に気づかず、窓の外をぼんやりと眺めている。

悠人は、声をかけることができなかった。記憶が失われた彼女に、かつての自分を重ねることはできない。彼は、そっと彼女を見つめる。すると、彼女はゆっくりと悠人の方を振り返った。そして、悠人の顔を見た瞬間、彼女の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。

彼女は何も覚えていない。悠人の名前も、彼と過ごした日々も、彼への愛も。しかし、その涙は、確かに彼女の魂の奥底に、悠人という存在が刻まれていた証のように思えた。言葉は交わされない。ただ、二人の視線が交錯し、カフェの喧騒の中で、微かな、しかし永遠の愛の残像が揺らめいた。

記憶は時に、残酷に人を裏切る。だが、魂は、愛を決して忘れないのかもしれない。悠人は、静かに、しかし確かな感動を胸に、窓の外に広がる青い空を見上げた。彼の人生は、葉月との出会いによって、永遠に形を変えたのだ。

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