きみと僕を分かつ秒針

きみと僕を分かつ秒針

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第一章 終わりを告げる数字

古書の黴と紙の匂いが染みついたこの場所が、僕、水島湊(みずしまみなと)の世界のすべてだった。窓から差し込む午後の光が、埃を金色にきらめかせる。僕はカウンターの奥で、その光の筋をぼんやりと眺めていた。僕の目には、人とは少し違うものが映る。

それは、誰かを本気で好きになった時から始まった。愛した相手の頭上に、その人との関係が終わるまでの時間が、デジタル時計のように浮かび上がるのだ。別れ、心変わり、あるいは死。理由は様々だが、そのタイマーがゼロになった時、関係は必ず終わりを迎える。だから僕は、深く誰かを愛することをやめた。終わりを宣告されながら誰かを愛し続けるなんて、死刑執行を待つ囚人のようなものだ。

「こんにちは」

鈴の鳴るような声に顔を上げると、そこに彼女がいた。陽だまりをそのまま切り取って人の形にしたような、明るい笑顔の女性。小野寺陽菜(おのでらひな)と名乗った彼女は、古い絵本を探しているのだと言った。

「何か、心が温かくなるような物語がいいんです」

そう言って笑う彼女の周りだけ、空気が輝いているように見えた。彼女が書棚の間を歩く姿を目で追ううち、胸の奥で、錆びついていた何かがぎしりと音を立てた。まずい、と思った。この感情に名前をつけてはいけない。蓋をしなければ。

だが、遅かった。彼女が、色褪せた一冊の絵本を手に取って、子供のようにはしゃいだ笑顔を僕に向けた瞬間――それが見えてしまった。

彼女の、柔らかな髪の上に。

くっきりと浮かび上がる、冷たいデジタルの数字。

【365日 00時間 00分 00秒】

心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。一年。僕と彼女の間に横たわる、あまりにも明確で、残酷な時間。僕は固く決意した。この感情が育ち切る前に、根元から断ち切ってしまわなければならない。この恋は、始まってもいないのだから。

第二章 色づく世界と臆病な心

僕の決意とは裏腹に、陽菜は頻繁に店を訪れるようになった。新しい絵本が入荷していないか尋ねるのを口実に、彼女は僕に話しかけた。好きな本のこと、街で見つけた美味しいコーヒーのお店の話、彼女が描いているというイラストのこと。彼女が語る世界は、僕の知らない色と光に満ちていた。

僕は努めて無愛想に振る舞った。彼女の頭上のタイマーを見ないように、本を整理するふりをして目を逸らした。しかし、彼女は僕が築いた壁を、いとも簡単にすり抜けてくる。

「湊さんって、本当は優しいですよね。本の背表紙を撫でる指が、すごく優しいから」

ある日、そう言われて言葉に詰まった。誰も気づかないような僕の癖を、彼女は見抜いていた。その日から、彼女を避けることが、日に日に難しくなっていった。

一緒にいる時間が増えるにつれ、僕の世界は確実に色づき始めた。彼女と歩く公園の木漏れ日は、今まで見ていたものよりずっと鮮やかで、彼女が淹れてくれたコーヒーの香りは、僕の心の奥深くまで満たした。灰色だった日常が、陽菜というフィルターを通すだけで、こんなにも輝いて見える。

だが、幸福感と同時に、恐怖が僕の心を蝕んでいく。彼女の頭上のタイマーは、一日、また一日と、容赦なく時を刻んでいた。【214日 15時間 32分 07秒】。その数字を見るたびに、胸を鋭いナイフで抉られるような痛みが走った。この幸せな時間は、すべて砂上の楼閣なのだと、現実を突きつけられる。

「これは本気の恋じゃない」僕は何度も自分に言い聞かせた。「ただ、少し気になっているだけだ」。そう思わなければ、心が壊れてしまいそうだった。

夏の終わりの夜だった。閉店後の店で、黙々と本の整理をする僕の隣で、陽菜が静かに言った。

「私、湊さんのことが、好きです」

その言葉は、僕が最も恐れていたものだった。月の光が、彼女の真剣な横顔を照らしている。頭上のタイマーが、赤く点滅しているように見えた。僕は、震える声で答えるしかなかった。

「……ごめん。俺は、君とは付き合えない」

僕の言葉に、彼女の肩が小さく震えた。何も言わずに立ち上がると、彼女は一度だけ僕を振り返り、悲しそうに微笑んで、店から出ていった。ドアのベルが、ちりん、と寂しく鳴った。その日を境に、陽菜が店に現れることはなくなった。

第三章 タイムリミットの真実

陽菜が去って、僕の世界は再び色を失った。いや、以前よりもっと深く、昏い灰色に沈んでいった。これでよかったのだ。タイマーがゼロになる前に、彼女は僕の前から去った。残酷な結末を迎える前に、すべてを終わらせた。僕は自分にそう言い聞かせたが、胸に開いた穴は、日に日に大きくなっていくばかりだった。

数週間が過ぎたある日、店に見慣れない女性が訪ねてきた。陽菜の友人だという彼女は、僕をまっすぐに見つめて言った。

「あの子、あなたに会って、本当に楽しそうでした。……日本での、最後の思い出ができたって」

最後の思い出? 意味が分からず聞き返すと、友人は俯きながら、衝撃的な事実を語り始めた。陽菜は、重い心臓の病を患っていた。日本での治療は限界で、海外での心臓移植手術だけが、唯一の希望だった。いつドナーが現れるか分からない、成功率も決して高くない手術。彼女はずっと、その日を待っていたのだという。

「昨日、ドナーが見つかったと連絡があって……今朝、日本を発ちました」

頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。陽菜が探していた、心が温かくなる絵本。それは、子供の頃、病室で母親が読んでくれた、希望の物語だったのだ。僕の店に通っていたのは、不安な待機期間の中で、一瞬でも心の安らぎを求めていたからだった。

その瞬間、すべてのピースがはまった。僕が見ていた【365日】というタイマー。それは、僕と彼女の関係の終わりではなかった。あれは――彼女に残された、命のタイムリミットだったのだ。僕が彼女を深く想い始めたことで、彼女の運命そのものを、可視化してしまっていた。

僕はずっと、勘違いしていた。僕の能力は、愛の終わりを告げる呪いなどではなかった。それは、大切な人の危機を知らせるための、警告だったのかもしれない。なのに僕は、自分だけが傷つくのを恐れて、終わりから目を逸らし、彼女が本当に助けを必要としていた時間に、彼女の孤独に寄り添うことすらしなかった。臆病な心が生んだ壁で、彼女を一人にしてしまった。

「うわぁ……っ」

カウンターに突っ伏し、声にならない嗚咽が漏れた。後悔が、黒い奔流となって僕の全身を飲み込んでいく。彼女の悲しそうな、あの最後の笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

第四章 数字の消えた空に

僕は、店に「しばらく休みます」という札をかけ、なけなしの貯金をすべて下ろして空港へ向かった。臆病だった自分との決別だった。もう、終わりを恐れて逃げるのはやめる。たとえどんな結末が待っていようと、彼女のそばにいよう。

数日後、僕は陽菜が入院している海外の病院にたどり着いた。ガラス張りの病室で、たくさんの管に繋がれた彼女は、僕が知っている太陽のような姿とはほど遠く、儚く、小さく見えた。僕の姿に気づくと、彼女は驚きに目を見開いた。

「どうして……」

「会いに来た。君に、伝えたいことがあって」

僕は、初めて自分の能力について話した。彼女の頭上に見えていたタイマーのこと。それを、僕たちの関係の終わりだと勘違いしていたこと。そして、どれほど後悔しているか。

「君の頭上のタイマーがゼロになるまで、そばにいたい。いや、たとえゼロになったとしても、その先もずっと、君と一緒にいたいんだ。陽菜、愛してる」

涙が溢れて止まらなかった。僕の告白を聞き終えた陽菜は、ゆっくりと微笑んだ。その頬にも、一筋の涙が伝っていた。

「私のタイマー、まだ動いてる? ……そっか。じゃあ、まだ大丈夫だね」

彼女は、力なくも僕の手を握り返してくれた。

手術の日。僕は、祈ることしかできなかった。手術室のランプが消えるまでの、途方もなく長い時間。やがて出てきた医師の「成功です」という言葉を聞いた時、僕はその場に崩れ落ちた。

麻酔から覚めた陽菜の病室を訪れると、彼女は穏やかな顔で眠っていた。そして、僕は息をのんだ。彼女の頭上から、あの冷たいデジタルの数字は、跡形もなく消え去っていた。代わりに、まるで夜明けの空のような、淡く柔らかな光が彼女を包んでいるように見えた。

もう、タイマーは見えない。未来がどうなるかなんて、誰にも分からない。でも、それでいいのだと、心から思えた。終わりが見えないからこそ、僕たちは「今」という一瞬一瞬を、愛おしみながら生きていける。

数年後、僕たちは海辺の街で暮らしている。すっかり元気になった陽菜は、海を描いたイラストで、小さな賞をもらった。僕の目には、もう誰の頭上にもタイマーは映らない。能力が消えたのか、それとも僕自身が、終わりではなく始まりを見つめることを選んだからなのか。それは、分からない。

ただ、隣で笑う陽菜の手を握ると、確かな温もりが伝わってくる。僕たちは、限りある時間の中で出会い、愛し合っている。秒針の音に怯えるのではなく、その一秒一秒の尊さを分かち合っていく。それこそが、僕が見つけた、愛という名の物語だった。

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