七色のサイレンス

七色のサイレンス

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第一章 虹色のキャンバス

僕、水野湊(みずの みなと)の世界は、少しだけ他の人とは違って見えている。いや、正確に言えば、幼馴染の日高陽菜(ひだか ひな)の周りだけが、特別だった。

物心ついた頃から、僕には陽菜の感情が「色」として見えた。彼女が心から笑うとき、その周りにはタンポポの綿毛のような、温かい黄金色の光が舞う。悲しいときは、深い海の底を思わせる静かな藍色が滲み、怒っているときは、燃え盛る焚火のような緋色がパチパチと火花を散らす。それはまるで、彼女という存在を彩るオーラのようで、言葉よりもずっと雄弁に、彼女の心を僕に伝えてくれた。

この秘密の景色は、僕と陽菜の間の特別な絆の証だった。口下手な僕にとって、彼女の「色」は、コミュニケーションを補うための羅針盤であり、彼女の言葉の裏にある本当の気持ちを汲み取るための翻訳機だった。だから僕は、陽菜が無理して笑っているときの、くすんだ黄色の奥に揺れる小さな藍色の影を見つけては、そっと寄り添うことができたのだ。

その日も、いつもと変わらない午後のはずだった。大学の講義を終え、中庭のベンチで文庫本を読んでいると、「湊、お待たせ!」という弾むような声がした。顔を上げると、夕陽を背にした陽菜が、柔らかな笑顔で手を振っている。彼女の笑顔は、いつも僕の心を照らす太陽だ。

しかし、僕は息を呑んだ。

ない。いつもあるはずの「色」が、ないのだ。

いつもなら、友人との楽しい会話の後には快活なオレンジ色が、難しい講義を乗り越えた後には達成感のある若草色が、彼女の周りをふわりと包んでいるはずだった。なのに今、僕の目に映る陽菜は、まるで輪郭だけをなぞられたスケッチのようだった。辛うじて、くすんだセピア色の靄のようなものが漂っているだけで、あの生命力に満ちた鮮やかな色彩はどこにも見当たらない。

「どうしたの? ぼーっとして」

陽菜が僕の隣に腰を下ろし、小首を傾げる。その仕草も、声のトーンも、いつも通りの陽菜だ。なのに、僕の世界は音を立てて歪み始めていた。

「いや……なんでもない。ちょっと疲れてるだけかも」

嘘だった。僕の心臓は、見たことのない異常事態に警鐘を鳴らしていた。陽菜の身に何かが起きている。僕だけが知覚できる、静かで、しかし決定的な異変が。彼女を取り巻いていた虹色のキャンバスは、誰にも気づかれぬまま、その彩度を失い始めていた。僕たちの友情の根幹を成していたはずの色彩が、静寂(サイレンス)の中へと溶けていくような、底知れない不安が胸に広がった。

第二章 モノクロームの迷宮

陽菜の色が消え始めてから、一週間が過ぎた。状況は好転するどころか、日に日に悪化していた。かつて彼女の周りを鮮やかに彩っていたオーラは、今や古いモノクロ映画のように、濃淡の異なる灰色に成り果てていた。陽菜は相変わらず明るく振る舞い、友人たちと笑い、僕にも屈託のない笑顔を向けてくる。だが、僕にはその笑顔が、色のない世界で虚しく響くだけのように感じられた。

「ねえ、湊。今度の週末、水族館に行かない? 新しいクラゲの展示が始まったんだって」

カフェで向かい合って座る陽菜が、パンフレットを広げて無邪気に誘ってくる。その声には喜びの響きがあった。しかし、彼女の周りは、ただただ平板なライトグレーが漂うだけ。僕は焦燥感に駆られていた。何とかして、あの色を取り戻さなければ。僕たちの繋がりが、希薄になって消えてしまう前に。

僕は、陽菜の色を蘇らせるための、必死の試みを始めた。彼女が好きだった映画を一緒に観に行き、思い出の公園のブランコに乗り、誕生日でもないのに彼女が欲しがっていたアクセサリーをプレゼントした。彼女は驚きながらも、そのすべてを「ありがとう、嬉しい!」と心から喜んでくれた。そのはずだった。

だが、色は戻らない。彼女の言葉や表情が豊かであればあるほど、その周囲に広がる無彩色の世界とのギャップが、僕を混乱の迷宮へと突き落とした。まるで、感情の源泉そのものが枯渇してしまったかのように、彼女の世界からは彩りが失われていた。

僕の必死さは、やがて空回りし始めた。

「湊、最近どうしたの? なんだか、変だよ」

ある日の帰り道、陽菜が心配そうな顔で僕を見つめた。彼女の周りは、不安を示すかのように、少しだけ濃いチャコールグレーに染まっている。僕は、喉まで出かかった真実を飲み込んだ。「君の感情の色が見えるんだ。でも、それが消えかかっている」なんて、どうして信じてもらえるだろう。狂人だと思われるのが関の山だ。

「……ごめん。なんでもない」

その一言が、僕たちの間に見えない壁を作った。僕は陽菜の心を理解するための唯一の術を失い、陽菜は僕の不可解な行動に戸惑っていた。僕が良かれと思ってやっていたことは、かえって彼女を追い詰めていたのかもしれない。灰色の世界の中で、僕たちは互いの心を見失い、静かにはぐれていく。そのどうしようもない孤独感が、まるで冷たい霧のように僕の心を覆っていくのだった。

第三章 名もなき色の名は

その電話は、深夜の静寂を切り裂くように鳴った。陽菜の母親からだった。震える声で告げられたのは、「陽菜が、倒れたの」という一言。僕はパジャマのまま家を飛び出し、タクシーに乗り込んだ。窓の外を流れる街のネオンが、やけに非現実的に見えた。

病院の白い廊下を走り、教えられた病室のドアを開ける。そこにいたのは、たくさんの管に繋がれ、静かに目を閉じた陽菜だった。彼女の周りには、もう何の色もなかった。完全な無。透明な空虚が広がっているだけだった。僕の特殊な視界は、ついにその意味を失ったのだ。

「……湊くん」

ベッドの脇に座っていた陽菜の母親が、憔悴しきった顔で僕を見上げた。そして、ゆっくりと語り始めた言葉は、僕の築き上げてきた全ての前提を根底から覆すものだった。

「陽菜はね、病気なの。少しずつ……五感が失われていく病気。特に、色を識別する力が、急速に衰えていたのよ。最近では、ほとんどの世界が白黒にしか見えていなかったはず……」

頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。僕が見ていた「色」は、陽菜自身の感情ではなかった。それは、色彩豊かな世界を彼女がその目で見て、心で感じ取ったときの、「感動の反射光」だったのだ。彼女が美しい夕焼けを見て心を震わせたとき、僕には燃えるようなオレンジ色が見えた。彼女が新緑の眩しさに目を細めたとき、僕には生命力溢れる若草色が見えた。

僕が見ていたのは、陽菜の感情そのものではなく、陽菜が愛した世界の彩りだった。彼女が世界から色を失っていくにつれて、僕に見える「色」もまた、消えていったのだ。僕は、陽菜の感情を理解しているつもりで、実は彼女の目を通して、世界の美しさの一部を分けてもらっていたに過ぎなかった。

数時間後、陽菜が静かに目を開けた。僕の存在に気づくと、力なく微笑む。

「……ごめん、心配かけて」

その声はか細く、しかし、僕には何よりも強く響いた。僕は、彼女の手をそっと握った。もう迷いはなかった。

「陽菜。ずっと言えなかったことがあるんだ」

僕は、震える声で全てを打ち明けた。僕にだけ見えていた、彼女の周りの色のことを。喜びの金色、悲しみの藍色、そして、それらが失われていった過程を。陽菜は驚いたように目を見開いた後、その瞳から静かに涙をこぼした。

「そっか……。湊には、見えてたんだ。私が大好きだった、きれいな色が……。もう、私には見えない色たちが」

嗚咽を漏らす彼女を前に、僕は自分の無力さを痛感した。だが、同時に、今だからこそ僕にできることがあると確信した。

「大丈夫だ」僕は彼女の手を、さらに強く握りしめた。「大丈夫。これからは、俺が君の目になる。俺が見た色を、全部君に話して聞かせる。言葉で、音で、匂いで……君が感じられなくなった分の世界を、俺が君に届ける。それが、俺たちの新しい友情の形だ」

その瞬間、僕の目には信じられない光景が映った。

色のない、空虚だったはずの陽菜の周りに、ひとつの、淡い光が灯ったのだ。それは、これまで僕が見たどの色とも違っていた。金色のように温かく、藍色のように静かで、緋色のように力強い。何色と定義することのできない、名もなき、尊い光。それはきっと、絶望の淵で見つけた、小さな希望の色だった。

窓の外では、夜が明け始めていた。僕は陽菜の隣に座り、ゆっくりと語り始めた。

「見て、陽菜。東の空が、少しずつ白んできた。一番深い藍色の夜空に、薄紫色の絵の具を一滴落としたみたいだ。そして、その端っこから、今、燃えるようなオレンジの光が……」

僕たちの間にもう、虹色のキャンバスはない。けれど、言葉を紡ぐたびに、陽菜の周りの名もなき光は、より一層強く、優しく輝きを増していく。色を失った世界で、僕たちはようやく、本当の意味で心を通わせるための、最初の言葉を見つけたのだった。

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