第一章 音のない男と気配の少女
水野響(みずのひびき)の日常は、常に無音だった。
彼が歩いても、足音はしない。ドアを開けても、蝶番の軋む音はしない。カップをソーサーに置いても、硬質な陶器が触れ合う澄んだ音は響かない。まるで世界という舞台の上で、彼一人だけが音響効果を消されたパントマイマーのようだった。声帯だけは正常で、言葉を発することはできたが、それ以外の生活音の一切が、彼の身体から生まれることはなかった。
この特異な体質は、物心ついた頃からのものだ。幼い頃は、かくれんぼで誰にも見つけられず、得意になったこともあった。しかし成長するにつれ、それは孤独の別名となっていった。背後から同僚の肩を叩けば悲鳴を上げられ、「忍者みたいだね」という揶揄に曖昧に笑ってやり過ごす。彼の存在は、常に誰かを驚かせる凶器になる可能性を秘めていた。だから響は、自らの存在感を極限まで希薄にすることに努めて生きてきた。ゆっくりと動き、角を曲がる前にはわざと咳払いをする。そうやって、世界との間に無用の摩擦を起こさないように、息を潜めていた。
響の職場は、市立図書館の古書修復室。古い紙の匂いと、沈黙が支配するその場所は、彼にとって唯一の聖域だった。本のページをめくる音すら立てない彼は、この仕事の天職だとさえ思っていた。傷んだ背表紙に糊を塗り、破れたページを薄紙で補修する。その細やかな作業に没頭している間だけ、彼は自分の無音性を忘れられた。
そんな彼の聖域に、変化が訪れたのは、初夏の光が埃をきらめかせる午後のことだった。閲覧室のカウンター当番をしていた響の前に、一人の少女が立った。歳は十歳くらいだろうか。色素の薄い髪を肩で切り揃え、大きな瞳はじっと正面の本棚を見つめている。彼女がカウンターに置いた一冊の本を、響は無言で受け取った。貸し出し手続きをしようとバーコードリーダーを手に取った瞬間、少女が響の顔を見上げ、にこりと微笑んだ。そして、小さな手で、自分の耳を指差してから、横に振った。耳が聞こえない、というサインだった。響は頷き、手続きを終えた本をそっと彼女に差し出す。少女は小さなノートとペンを取り出し、さらさらと文字を書いた。
『いつも静かですね。本が喜んでいるみたい』
響は虚を突かれた。彼を認識した上で、「静かだ」と評価する人間に出会ったのは初めてだったからだ。大抵の人間は、彼の存在そのものに気づかないか、気づいた時に驚くだけだ。響は少し戸惑いながらも、カウンターのメモ帳に返事を書いた。
『ありがとう。ここは静かな場所だから』
『でも、あなたの静けさは、特別。空気が澄んでるみたい』
少女はそう書き残し、ぺこりとお辞儀をして去っていった。カウンターに残された響は、自分の頬が微かに熱を持っていることに気づいた。彼女は、響の無音性を、欠落ではなく個性として、それも肯定的に捉えてくれたのだ。翌日から、少女――七瀬詩(ななせうた)は、毎日のように図書館へやって来た。そして必ず、響の存在にすぐに気づき、柔らかく微笑むのだった。他の誰もが彼の気配に気づかず通り過ぎていく中で、なぜ彼女だけが? 響の心に、長年忘れていた好奇心という名の小さな波紋が広がっていった。
第二章 不協和音と筆談の旋律
詩との交流は、筆談という静かな旋律となって響の日常に溶け込んでいった。彼女は学校が終わると図書館にやってきて、窓際の席で宿題をしたり、児童書のページを熱心にめくったりした。そして、カウンターにいる響を見つけると、ノートを手にやってくるのだ。
『今日、学校の音楽の授業で、ベートーヴェンの話を聞きました。彼も耳が聞こえなかったのに、素晴らしい曲を作ったそうです。音って、耳だけで聴くものじゃないのかもしれない』
詩の言葉は、いつも響の心の深い場所に届いた。音のない世界に生きる自分と、音が聞こえない世界に生きる彼女。二人の間には、奇妙で、しかし確かな共感が流れていた。響は、自分の体質のことを彼女に打ち明けたいという衝動に駆られたが、同時に怖かった。この特別な関係が、憐れみや同情に変わってしまうのではないか。その恐怖が、彼の口を重くした。
ある雨の日、事件は起きた。閉館間際の図書館は閑散としており、詩はいつものように児童書コーナーで本を読んでいた。響が書庫の整理を終えて戻ってくると、大きな書架の一つが、ぐらりと不吉な角度に傾いでいるのが目に入った。老朽化した棚の留め具が、湿気で緩んだのかもしれない。そして、そのすぐ下には、本に夢中になっている詩の小さな背中があった。
「危ない!」
響は叫んだ。しかし、彼の声は詩には届かない。身体が勝手に動いていた。彼は音もなく床を蹴り、詩のもとへ駆け寄った。轟音と共に崩れ落ちてくる書架と、詩との間に滑り込み、彼女の身体を強く突き飛ばす。響の肩を、分厚い事典の角が掠めていく。
間一髪だった。散乱した本の山の中で、響は荒い息をついた。突き飛ばされた詩は、何が起こったのか分からず、驚いた顔で響を見つめている。やがて、異変に気づいた館長や他の利用者が駆け寄ってきた。彼らの目に映ったのは、倒れた書架と、尻餅をついている少女、そしてその前に仁王立ちする響の姿だった。
「水野くん、君はいったい何を…!」
館長の咎めるような声。周囲の人間は、響が少女を突き飛ばしたのだと誤解していた。彼の行動には、危機を知らせる足音も、何かを庇う物音も、一切伴わなかったのだから。弁解しようにも、何から話せばいいのか分からない。声が喉に詰まる。響はただ唇を噛み締めた。その時、立ち上がった詩が、響の前に駆け寄り、彼の袖を引いた。そして、いつものノートに、震える手でこう書いた。
『ありがとう。あなたの“振動”が、教えてくれた』
その言葉は、非難の視線を一身に浴びていた響にとって、唯一の救いだった。しかし、同時に、新たな謎が彼の心に深く刻まれた。「振動?」――その言葉の意味を、彼は理解できずにいた。
第三章 世界で一番静かな告白
後日、図書館の休憩室で、響は詩と向かい合っていた。館長の誤解は、監視カメラの映像を確認することですぐに解けた。だが、響の心の中には、詩が書き残した「振動」という言葉が、ずっと反響していた。
響は意を決して、自分の秘密を打ち明けることにした。メモ帳に、自分の身体から生活音が一切しないことを、訥々と書き連ねていく。それは、生まれて初めての、魂の告白だった。書き終えたペンを置き、緊張して詩の反応を待つ。
詩は、響が書いた文章をゆっくりと、何度も頷きながら読んだ。そして、読み終えると、顔を上げて、まっすぐに響の目を見つめた。その瞳には、驚きも、同情もなかった。ただ、深く澄んだ理解の色が湛えられているだけだった。彼女はペンを取ると、ノートに返事を書いた。
『知ってたよ』
たった一言。しかし、それはどんな長文よりも響の心を揺さぶった。詩は続けた。
『耳が聞こえないから、私は、他のもので世界を感じるの。光の動き、空気の流れ、人の気配。そして、床から伝わる、ほんの小さな振動』
彼女は自分の足元を指差した。
『図書館の床は古い木でできてるから、人が歩くと、ほんの少しだけ振動する。他の人の振動は、足音と一緒にやってくる。ド、ドン、ド、ドンって。でも、あなたの振動は、音がないの。ただ、静かな波紋みたいに、すーっ、すーっ、て、私に伝わってくる。だから、あなたがどこにいるか、すぐに分かる。他の誰とも違う、あなただけの特別な“音”』
響は息を呑んだ。全身の血が逆流するような衝撃。自分の人生を縛り付けてきた呪いが、祝福の言葉に変わった瞬間だった。欠落だと思っていた。存在感の希薄さの証明だと思っていた。しかし、詩の世界では、それは誰よりも明確で、純粋な「存在の証」だったのだ。音という不純物を取り除いた、ただそこに「在る」という事実そのものが、振動となって彼女に届いていた。
『あの時もそう。あなたが私に向かって走ってくる、切羽詰まった速い振動が、床から伝わってきた。だから、何かが起きるって分かったの』
涙が、響の目からこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。何十年という孤独が、雪解け水のように流れ出していく、歓喜の涙だった。彼は自分の存在を、初めて心から肯定できた。自分は、この世界に、確かに存在している。音はなくとも、響いている。一人の少女の世界に、確かに。
彼は震える手で、メモ帳に感謝の言葉を書こうとした。だが、詩はそっとその手を制し、自分の手のひらを響の喉元に当てた。そして、にっこりと微笑む。何かを、待っているようだった。
第四章 響きはじめる振動
その日から、響の世界は色を変えた。彼はもう、自分の存在を消そうとはしなくなった。忍び足で歩くのをやめ、ごく自然に、自分の歩幅で館内を歩いた。もちろん、足音はしない。だが、床を伝わる確かな振動が、彼の存在を物語っていた。それは、彼自身が自分を肯定したことで得た、静かな自信の現れでもあった。
響は、詩と手を繋いで、目を閉じて図書館の中を歩く遊びを覚えた。彼の足の運びが起こす床の微かな振動を、詩は繋がれた手のひらを通して、まるで音楽を聴くように感じ取っていた。それは、言葉よりも、どんな音よりも、深く、直接的なコミュニケーションだった。彼の世界は「音がない」のではなく、「彼にしか奏でられない音(振動)」で満ち溢れていたのだと知った。
ある日の夕暮れ、閉館後の静まり返った閲覧室で、二人は窓の外に広がる茜色の空を眺めていた。詩は、新しいノートの最初のページを開き、響に渡した。そこには、一言だけ書かれていた。
『あなたの声が、聴いてみたい』
響は、自分の喉に手を当てた。彼には声がある。しかし、それは他者とのコミュニケーションのためというより、自分の無音性を補うための、やむを得ない道具でしかなかった。だが、今は違う。詩は、自分の喉の震えで、彼の言葉を感じようとしてくれている。
響は、詩の手を取り、自分の喉に優しく添えさせた。そして、夕焼けに染まる彼女の瞳をまっすぐに見つめ、深く息を吸い込んだ。長年、心の奥底にしまい込んでいた、本当の自分の音を、解き放つために。
「ありがとう」
それは、決して大きな声ではなかった。しかし、図書館の静寂の中に、驚くほどはっきりと、そして温かく響き渡った。詩は、目を細め、幸せそうに微笑んだ。彼女の指先に伝わる、声帯の確かな振動。それは、水野響という人間が、世界と初めて本当の意味で調和した瞬間の、産声のようだった。
二人の間には、もう言葉も、音も必要ないのかもしれない。ただ、互いの存在が起こす微細な振動だけが、世界で最も美しい音楽となって、静かに、どこまでも響き続けていた。