「聞こえるか、レン。こっちは準備万端だ」
夜風が頬を撫でる。地上百五十メートル、高層ビルの屋上の縁に立ったソラは、耳元のインカムに囁いた。眼下には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。しかし、彼の視線はその絶景ではなく、向かいにそびえ立つ漆黒の巨塔――巨大企業クロノス・インダストリー本社ビルに注がれていた。
『音声クリア。心拍数、少し高め。ソラ、深呼吸しろ』
インカムから返ってきたのは、対照的に落ち着き払った声。相棒のレンだ。彼のいる場所は、ここから数キロ離れた、ガラクタとモニターに埋もれた薄暗い自室。レンは指先一つで世界を書き換える天才ハッカー。そしてソラは、重力さえも味方につけるパルクールアスリート。
二人は、水と油だった。光と影だった。だからこそ、最高の相棒だった。
「うるさいな。武者震いだよ」ソラは唇の端を吊り上げて笑うと、軽く助走をつけ、ビルとビルの間に広がる暗い虚空へと身を躍らせた。
目的は、クロノス社が隠蔽している不正データの奪取。ソラの父を、業界から不当に追放した元凶だ。警察もメディアも動かない巨大な悪に、たった二人で挑む無謀な計画。だが、ソラに迷いはなかった。隣にレンがいる限り。
『最初の防衛ライン、赤外線センサーグリッドだ。パターンは解析済み。俺の合図で跳べ。3、2、1……今だ!』
レンの声に合わせ、ソラは空中で体勢を変え、壁を蹴る。目には見えない光の網が、彼の身体をミリ単位で掠めていく。まるで精密機械のように動くソラの肉体は、レンの頭脳と完璧にシンクロしていた。
「上出来。次は監視ドローンだ。二機、回廊の左右から来るぞ」
「お出ましか。こいつら、結構しつこいんだよな」
ソラがダクトの影に身を隠すと、浮遊音と共に二機のドローンが現れた。赤いサーチライトが、冷たく床を舐める。
『右のドローンは俺がジャックする。お前は左を叩き落とせ』
「了解!」
レンがキーボードを叩く音だけが響く数秒の沈黙。やがて、右のドローンが不自然に動きを止め、突然向きを変えて左のドローンに機銃を放った。火花が散り、金属音が響き渡る。その隙に、ソラは影から飛び出し、残った一機に壁走りで接近すると、強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
「ナイス、レン! お前のハッキング、冴えてるな」
『お前のキックもな。だが、本番はここからだ。最上階サーバー室、物理ロックが三重にかかってる』
目的の部屋にたどり着いた二人を待っていたのは、分厚いチタン合金の扉だった。電子ロックはレンが難なく解除したが、最後のダイヤル式ロックだけは、ネットワークから完全に切り離されていた。
『万事休すか……。このタイプは内部構造が分からないと開けられない』
弱気なレンの声に、ソラはニヤリと笑った。
「諦めるなよ、相棒。お前はデジタル担当。こっから先は、俺の出番だろ?」
ソラは扉をコンコンと軽く叩き、耳を澄ます。そしてインカムに告げた。
「いいか、レン。俺がダイヤルを回す。中のピンが正しい位置にハマった時の、ほんの僅かな金属音を拾ってくれ。お前の耳なら、ノイズの中からだって聞き分けられるはずだ」
無茶な提案だった。だが、レンは何も言わずに『……分かった』とだけ答えた。
静寂が支配する。ソラは全神経を指先に集中させ、ゆっくりとダイヤルを回した。カチリ、カチリと微かな音が鳴る。
『……今の音だ。もう一度、少し手前で』
『違う、行き過ぎだ』
『そこだ! ストップ!』
レンの指示に従い、ソラがダイヤルを一つ、また一つと合わせていく。それはまるで、遠く離れた場所で、二人が一つの生命体になったかのような、奇跡的な共同作業だった。
そして、最後のダイヤルを合わせ終えた瞬間。重々しい音を立てて、巨大な扉のロックが外れた。
「……やった」
『やったな!』
インカムの向こうで、初めてレンが興奮した声を上げる。ソラは拳を突き上げた。データのダウンロードは一瞬で終わった。
警報がビル全体に鳴り響く中、二人は追っ手を振り切り、夜明け前の街へと逃げ込んだ。近くのビルの屋上で、息を切らした二人は肩を並べて座り込む。
東の空が、少しずつ白み始めていた。
「なあ、レン。次は何する?」
ソラが尋ねると、隣に腰を下ろしたレンは、初めて見せるような柔らかい笑みを浮かべた。
「少し休ませてくれ。それから、世界が驚くような、もっとデカいことを考えよう。お前と一緒なら、何でもできる気がする」
ゼロとイチしか信じなかったハッカーと、己の肉体だけを信じて跳び続けたジャンパー。交わるはずのなかった二つの世界が、今、固い友情で結ばれ、眼下に広がる世界を照らす朝日を迎えていた。
ゼロとイチの跳躍
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