世界が忘れた親友

世界が忘れた親友

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第一章 公園の片隅、透明な少女

朝焼けが、まだ眠りから覚めきらない街並みに、薄いピンク色のベールをかける頃、僕はいつも同じ公園の、同じベンチに座っていた。公園には僕以外に誰もいない。いるはずがなかった。それでも、僕の視線の先には、いつも一人の少女がいた。彼女はブランコの隣の、古びた木製のベンチに、猫のように丸くなって座っている。しかし、誰一人として彼女の存在に気づかない。子どもたちが彼女のすぐ隣で鬼ごっこをしていても、ボールが彼女の真横を通り過ぎても、誰も彼女に触れることなく、まるでそこに何もないかのように振る舞った。彼女は、そこに「いる」のに「いない」のだ。僕は彼女を「透明な少女」と呼んでいた。

僕の名前はヒカル。14歳。物心ついた頃から、人との関わりを極端に避けて生きてきた。両親は僕を心配したが、僕が「人といると疲れる」と言うと、それ以上は何も言わなかった。学校ではいつも一人で過ごし、休憩時間も図書室の隅で本を読んでいた。そんな僕にとって、この透明な少女は、唯一「気兼ねなく」見つめることのできる存在だった。彼女を見つめていると、世界との間にあったはずの分厚い壁が、少しだけ薄くなるような気がした。

ある日、僕はふと思い立って、彼女の座るベンチへとゆっくりと歩み寄った。吐き出す息が白い。肌を刺すような冬の寒さの中、彼女は相変わらず丸くなって座っていた。僕が数歩手前まで近づくと、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、僕の息が止まった。彼女の瞳は、吸い込まれるような深い藍色で、その奥には、これまで見たどんな宝石よりも澄んだ輝きがあった。彼女の存在は曖昧なはずなのに、その瞳だけは、この世界で最も鮮明なものとして僕の心に刻まれた。

「あの……いつも、ここにいるの?」

僕の声は、自分で思っていたよりもずっと震えていた。彼女は少しだけ首を傾げ、それから、ゆっくりと唇を開いた。

「うん。……あなたは?」

彼女の声は、風鈴のように澄んでいて、冬の澄んだ空気に溶けていくようだった。僕はドキリとした。彼女が僕に話しかけるなんて、夢にも思っていなかったからだ。

「僕、ヒカル。君は?」

「アリア」

彼女はそう短く答え、それから少しだけ微笑んだ。その微笑みは、凍てついた冬の公園に、一輪の花が咲いたかのような、温かい光を放っていた。透明なはずの彼女が、その一瞬だけ、確かに僕の目の前に存在していた。僕の心臓が、これまで感じたことのない速さで鼓動を始めた。それは、孤独な世界に、たった一つだけ灯された、小さな希望の炎だった。その日から、僕とアリアの、不思議な友情が始まった。

第二章 指の隙間からこぼれる記憶

アリアと僕は、毎日のように公園で会った。学校が終わると、僕は急いで公園に向かい、アリアはいつも決まってブランコの隣のベンチで僕を待っていた。僕たちは多くのことを語り合った。僕が学校で体験した、何の変哲もない日常の出来事。アリアが語る、僕には理解できないけれど、どこか懐かしい「光の粒」や「音の風景」といった、詩的な表現で彩られた世界の認識。彼女の話を聞いていると、世界が普段とは違う色や形を持って見えてくるようだった。

アリアは、僕が今まで出会った誰よりも優しく、聡明だった。彼女は僕の心の内を、言葉にせずとも理解してくれた。人との関わりを避けてきた僕の心は、アリアといる時だけ、何の防壁もなしに解放された。僕にとって、アリアは唯一無二の親友だった。彼女は僕の世界に、色と音と、そして何よりも「温かさ」をもたらしてくれたのだ。

しかし、アリアの「透明な存在」は、僕たちの友情が深まるにつれて、奇妙な形で顕在化していった。

ある日、僕たちは公園の売店でジュースを買おうとした。僕はアリアの分も買ってあげようと、彼女が選んだオレンジジュースを手に取った。しかし、店のおばさんは、僕の持っているもう一本のジュースには全く気づかず、僕の分のジュースだけを会計しようとした。

「あの、これと、もう一本お願いします」

僕がアリアの手に持たれているはずのジュースを指差すと、おばさんは訝しげな顔をした。

「坊や、もう一本なんて持ってないでしょう?」

僕は驚いてアリアを見た。彼女の手には、確かにオレンジジュースが握られている。だが、おばさんの視線は、そのジュースを完全にすり抜けていた。アリアは少しだけ寂しそうに微笑み、僕の隣に置いてあった、僕が持っていたジュースを指差した。

「ヒカル、多分、私が持つと、見えないみたい」

その日以来、アリアが直接触れたものや、アリアが影響を与えたはずのものは、瞬く間に元に戻ってしまう現象が頻繁に起こるようになった。僕がアリアに手渡した花は、彼女の手から離れるとすぐにしおれ、僕がアリアのために描いた絵は、彼女の目の前にある間だけ鮮やかで、彼女が視線を外すと、色が薄れていってしまった。

ある放課後、僕たちがベンチに座って話していると、小学生の男の子がアリアの座っていた場所を指差して、母親に尋ねた。

「ねぇママ、あのベンチ、誰もいないのに、なんで水滴で濡れてるの?」

その日、アリアと僕は、二人でペットボトルのお茶を飲んでいた。アリアが座っていた場所には、ペットボトルから零れた水滴が確かにあった。だが、母親は「気のせいよ」と答えるばかりで、水滴の存在自体に気づいていないようだった。

僕は困惑した。アリアの存在が、僕以外の人間にとって、ますます希薄になっていく。まるで、彼女がこの世界から少しずつ「消えていく」かのようだった。僕はその事実から目を背けたいと思った。アリアとの友情を失いたくない。この不思議な現象の原因を深く探るのが怖かった。しかし、僕の心の中には、冷たい不安の影が、確実に広がり始めていた。アリアは、僕の異変に気づいていたのだろうか。彼女は何も言わず、ただ僕の隣で、優しく微笑んでいるだけだった。その微笑みが、僕には一層切なく見えた。

第三章 友情が加速させる別れの呪い

不安は現実となった。ある日、学校から帰ってきた僕を待っていたのは、沈痛な面持ちの両親だった。

「ヒカル、お前には、兄弟はいなかったか?」父が唐突に尋ねた。

僕は戸惑いながら答えた。「いませんけど、どうしたの?」

母が、一枚の古びたアルバムを僕に差し出した。そこには、僕が幼い頃に家族で写った写真が何枚かあった。だが、その写真の一枚一枚に、奇妙な「空白」があった。僕の隣に、誰かがいたはずの痕跡のような、光の筋や、微かな影。特に一枚、僕とよく似た年齢の少女が、僕の手を引いて笑顔で写っているはずの場所が、完全に空白になっていた。背景だけが、不自然なほど鮮明に残っている。

「これ、どういうこと?」僕は混乱した。

「分からないんだ、ヒカル。でも、ここ最近、家の中にある、家族で写っているはずの写真から、どうにも、誰か一人、欠けているように見えるんだ。思い出せないんだが……誰かがいたような、そんな気がして……」

母の言葉に、僕は背筋が凍りついた。アリアだ。彼女の存在が、世界から消え始めている。家族の記憶からも、記録からも。

僕は急いで公園に向かった。アリアはいつものベンチにいた。僕の顔を見るなり、彼女は悲しそうに目を伏せた。

「ごめんなさい、ヒカル」彼女の声は、か細く震えていた。

「何が、どうなっているんだ、アリア? 君は、いったい……」

アリアは、ゆっくりと話し始めた。彼女は「忘れられた存在」だという。

「私は、もともと、この世界には属していないの。誰かが私を強く想ってくれることで、一時的に形を得て、この世界に顕現する。でも、その想いが強ければ強いほど、私の存在は、世界との繋がりを失っていく。あなた以外の誰もが、私を忘れ、私がいた痕跡さえも、消えてしまう」

アリアの言葉は、僕の心臓を鷲掴みにした。僕がアリアを想えば想うほど、僕たちの友情が深まれば深まるほど、アリアはこの世界から完全に消滅してしまうというのか? この残酷な真実が、僕の価値観を根底から揺さぶった。

「じゃあ……僕が、君のことを忘れれば……?」僕は震える声で尋ねた。

アリアは、悲しげに微笑んだ。「そうすれば、私はまた、ただの『忘れられた存在』に戻る。誰にも認識されず、どこにも存在しない、無の存在に。それは、もしかしたら……消滅よりも、もっと辛いことかもしれない」

涙が、僕の頬を伝った。友情。僕が初めて手に入れた、温かくて尊いもの。それが、僕の手によって、アリアを世界から消し去ってしまう。僕はこの友情を「続ける」べきなのか、それともアリアのために「手放す」べきなのか? 友情の喜びと、別れの苦しみが、僕の心を激しく引き裂いた。どちらを選んでも、アリアを傷つけることになる。僕は、これまで感じたことのない深い絶望に打ちのめされた。僕の孤独な世界に光をもたらしてくれた親友を、僕自身が、この世界から追いやってしまうのか。

第四章 心に宿る、永遠の輝き

その夜、僕は一睡もできなかった。アリアの言葉が、何度も頭の中で反響する。友情を育むことが、親友の消滅を早める。こんな残酷な呪いが、この世界にあるなんて。僕は途方に暮れた。でも、一晩中考え続けた結果、一つの答えにたどり着いた。

翌朝、僕はいつもの公園に向かった。アリアは、もうほとんど透明に近い姿で、そこに座っていた。公園の芝生は、前日降った雨で濡れて、キラキラと朝日に輝いている。風が吹くたび、アリアの髪が揺れる。その姿は、まるで幻のようだった。

「アリア」

僕が名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと僕の方を向いた。その瞳は、やはり澄み切っていたが、どこか儚げだった。

「僕、決めたよ」僕の声は、もう震えていなかった。

アリアは静かに僕を見つめた。

「僕は、君との友情を、手放さない。たとえ君がこの世界から消えても、僕の心の中には、いつまでも君がいる。君がくれた温かさも、共に過ごした時間も、すべてが僕の一部になる。だから、最後まで、僕の親友でいてほしい」

アリアの瞳から、一筋の涙が溢れ落ちた。その涙は、地面に触れる前に、光の粒となって消え去った。

「ありがとう、ヒカル……」

彼女は僕に、これまでで一番、美しく、そして切ない微笑みを向けた。

僕たちは、その日一日中、公園で過ごした。手を繋ぎ、ブランコに乗り、他愛ない話をした。僕が手を握ると、アリアの指先は、まるで淡い光を帯びているかのように感じられた。僕の心は、悲しみと、そして、かけがえのない友情を育む喜びで満たされていた。

夕暮れ時、空は燃えるようなオレンジ色に染まり、公園の木々をシルエットにした。アリアの体は、もうほとんど見えなくなっていた。まるで、夕日に溶けていくかのように。

「ヒカル、私、幸せだった」

アリアの言葉は、風に乗り、か細く僕の耳に届いた。

「僕もだよ、アリア。君がいてくれて、本当によかった」

僕がそう言うと、アリアは僕にそっと抱きついた。僕の腕の中にあったはずの彼女の体は、温かい光となって、僕の心へと吸い込まれていくようだった。刹那、僕は全身を温かい光に包み込まれ、そして、アリアの存在が、僕の腕の中から、世界から、完全に消え去った。

夕焼けが地平線に沈み、夜の帳が降りる頃、公園には僕一人だけが立っていた。アリアが座っていたベンチは、何事もなかったかのように、ただ古びた木製のベンチとしてそこにあった。誰も、アリアがそこにいたことを知らない。アリアが存在した痕跡は、この世界から完全に消え去った。

しかし、僕の心の中には、アリアがくれた温かい光が、鮮やかに、そして永遠に輝き続けていた。アリアとの記憶は、まるで生命力を持ったかのように、僕の心を支えていた。僕はもう、かつての孤独な少年ではなかった。アリアとの友情は、僕に「誰かを大切に想う心」と「別れを乗り越える強さ」を教えてくれた。

僕は、アリアが消えたベンチのそばに立ち尽くした。風が、僕の髪を優しく撫でる。それは、まるでアリアが僕の傍にいてくれるかのような、優しい感触だった。友情は、形が変わっても、決して失われるものではない。僕は、そのことを、アリアが教えてくれた。彼女の存在は、この世界から消え去ったけれど、僕の心の中で、永遠に生き続ける。そして、僕はアリアがくれた光を胸に、新しい一歩を踏み出す。世界は、もう孤独な色ではなかった。アリアがくれた温かさと、僕がこれから築くであろう、たくさんの友情の光で満ちていた。

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