第一章 共鳴する痛み
俺、水野湊(みずのみなと)の左腕には、今も消えない細い傷跡がある。小学四年生の夏、親友の橘陽(たちばなはる)と秘密基地を作っていた時、錆びた釘で引っかけたものだ。その瞬間、俺よりも先に悲鳴を上げたのは、隣で木材を運んでいた陽だった。陽は自分の左腕を押さえ、顔をしかめていた。「いって……湊、腕、大丈夫か?」と。彼の左腕には、傷ひとつなかった。なのに、まるで同じ場所を同じように切り裂かれたかのような、リアルな痛みを共有していたのだ。
これが、俺と陽だけの秘密。『共鳴痛(きょうめいつう)』と名付けた、不思議な繋がり。一方が物理的な痛みを感じると、もう一方も時と場所を超えて同じ痛みを感じる。喧嘩で俺が殴られれば、陽の頬も熱を持ち、陽が階段から落ちて捻挫すれば、俺の足首も疼く。それは呪いなんかじゃない。俺たちにとっては、互いの存在を常に感じられる、最強の友情の証だった。
高校二年生になった今も、その繋がりは健在だ。昨日も、部活の練習でボールが当たって鼻血を出した陽のせいで、授業中にいきなり鼻の奥がツンとして、俺まで保健室に行く羽目になった。そんな理不尽も、陽との間では笑い話になる。俺たちは二人で一つ、一心同体。そう信じて疑わなかった。
その朝、全ての前提が崩れ去った。
いつものように陽からの「おはよ」という素っ気ないメッセージが届くはずのスマートフォンは、沈黙を保っていた。既読のつかないメッセージ。応答のない電話。胸騒ぎがして、俺は陽の家まで走った。チャイムを鳴らすと、出てきた彼のお母さんは、ひどく憔悴した顔で「陽なら、ゆうべから帰ってなくて……」と呟くだけだった。
部屋は、もぬけの殻だった。机の上は綺麗に片付けられ、まるで最初から誰も住んでいなかったかのように、生活の匂いが消えていた。陽が消えた。何の前触れもなく、一言も告げずに。
そして俺は、もっと恐ろしい事実に気づいてしまった。身体のどこを探しても、陽の気配がしないのだ。いつもなら、彼の些細な体の不調――寝違えた首の痛みや、軽い頭痛――が、微弱なノイズのように俺に伝わってくるはずなのに。今は、完全に無音。まるで、俺たちの繋がりを繋ぐ糸が、鋭いハサミでぷっつりと断ち切られてしまったかのように。俺の半分が、世界から忽然と消えてしまった。
第二章 沈黙する片割れ
陽が失踪してから、一週間が過ぎた。警察は家出と決めつけ、大々的な捜索はしてくれない。陽の両親は心労でやつれ、俺はただ無力感に苛まれていた。陽のいない教室、陽のいない帰り道。世界から色彩が抜け落ち、すべてがモノクロームに見えた。昼飯の味も、友達の冗談も、何もかもが空虚に感じられた。
俺に残された唯一の希望は、『共鳴痛』だった。陽がどこかで怪我をすれば、その痛みが俺に届くはずだ。それが、彼の生存と居場所を示す唯一のコンパスになる。馬鹿げた考えだと分かっていた。親友の不幸を願うなんて。だが、俺は藁にもすがる思いだった。
陽が好きだった場所を、俺は一人で巡った。夜景が綺麗だと笑っていた港の防波堤。スリルがあるとはしゃいでいた線路脇の小道。肝試しをした廃墟の病院。どこへ行っても、陽の残像がちらつくだけで、俺の身体に痛みは訪れない。風が肌を撫でる感覚も、遠くで鳴る汽笛の音も、ただひたすらに俺の孤独を際立たせるだけだった。
「どこにいるんだよ、陽……」
夕暮れの河川敷で、俺は膝を抱えて呟いた。陽と二人、ここでよく未来を語り合った。同じ大学に行って、くだらないことで笑い合って、そうやってずっと一緒に生きていくのだと、何の疑いもなく信じていた。
繋がりが消えたことが、これほど恐ろしいなんて。痛みがないということは、陽が無事だという証拠なのかもしれない。そう頭では理解しようとしても、心が拒絶する。痛みは、俺たちの絆そのものだったからだ。痛みのない世界は、陽がいない世界と同義だった。まるで身体の半分を奪われ、平衡感覚を失ったみたいに、俺の世界はぐらぐらと揺れていた。
焦りと絶望が、じわじวと俺の心を蝕んでいく。陽は、俺を捨てたのだろうか。俺たちの友情は、あいつにとってはその程度のものだったのだろうか。そんな黒い感情が芽生えるたび、俺は必死で首を振った。違う。陽に限って、そんなことは絶対にない。きっと何か、やむにやまれぬ事情があったんだ。
俺はただ、信じることしかできなかった。沈黙を続ける片割れの存在を。そして、いつかまた、あの懐かしい痛みが俺を訪れる日を、祈るように待ち続けた。
第三章 心臓を裂く真実
陽が消えてから、三週間が経った夜。諦めにも似た静かな絶望の中で眠りにつこうとしていた俺を、突如として凄まじい感覚が襲った。
それは、痛みだった。だが、これまで経験したどんな『共鳴痛』とも違っていた。鋭利な刃物で刺されるような物理的な痛みではない。冷たいガラスの破片が血流に乗り、全身の血管を内側から引き裂きながら駆け巡るような、魂そのものが凍てつくような感覚。息ができない。胸が張り裂けそうだ。これは、肉体の痛みじゃない。――心の、痛みだ。
激痛の奔流の中で、俺の脳裏に知らないはずの光景が、陽の記憶が、濁流のように流れ込んできた。
夜の図書館。閉館時間を過ぎた書庫で、陽が古い新聞の縮刷版を食い入るように見つめている。ページに載っているのは、十年前に起きた、俺の両親の交通事故の記事。公式には、居眠り運転による単独事故とされていた。だが、陽が見つけたのは、その隣に小さく掲載された別の記事だった。事故現場の近くで目撃された、不審な車両についての情報。そして、その車両の持ち主として名前が挙がっていたのは――俺を引き取り、実の息子のように育ててくれた、伯父さんの名前だった。
記憶は飛ぶ。伯父さんと、見知らぬ男が路地裏で話している。金を要求する男。顔を歪め、それを拒絶する伯父さん。「あの事故は、あんたの指示だったはずだ」「黙れ!もう終わったことだ」「あの子……湊くんが全部知ったら、どうなるかねぇ」。
全身の血が凍りついた。なんだ、これ……は。
陽は、偶然だった。調べ物のために残っていた図書館で、偶然あの記事を見つけ、偶然、伯父さんの会話を聞いてしまったのだ。俺の両親の死は、事故じゃない。伯父さんが、遺産か何かを巡って仕組んだ、殺人……?
陽の絶望が、俺の心を直接殴りつけた。親友の優しい伯父さんが、親友の両親を殺した?この地獄のような真実を、どうやって湊に伝えればいい?いや、伝えてはいけない。この事実を知れば、湊の心は壊れてしまう。あいつが今まで築き上げてきた世界、信じてきた愛情、その全てが崩壊してしまう。
流れ込んでくる記憶の最後。陽は鏡に映る自分の顔を見て、泣いていた。その頬を伝う涙の熱さが、俺の頬にも生々しく感じられた。
『湊に、この痛みを感じさせるわけにはいかない』
陽の悲痛な決意が、雷鳴のように俺の頭に響いた。
共鳴するのは、物理的な痛みだけではなかった。極限まで高まった感情、魂を焼くほどの心の痛みもまた、俺たちを繋いでいたのだ。陽が失踪したのは、俺から逃げるためじゃなかった。俺を、この絶望から守るためだった。彼は、この真実を知ってしまった心の激痛が俺に伝わるのを恐れ、俺たちの繋がりそのものを断ち切る方法を探し出し、自ら姿を消したのだ。俺が感じた繋がりの消失は、陽が俺のために張ってくれた、必死の防護壁だった。
そして今、何かの拍子でその壁が破れ、陽がたった一人で耐え続けていた地獄が、俺の中に流れ込んできたのだ。
第四章 温かい残像
俺は、陽が最後に感じていた絶望の場所へと、夜の街を無我夢中で走っていた。記憶が示した、あの図書館の裏にある、古びた公園。ベンチに腰掛けて泣いていた陽の姿が、目に焼き付いて離れない。
公園には誰もいなかった。冷たい月明かりが、静まり返ったブランコを照らしている。陽が座っていたベンチの下に、何か小さなものが落ちているのが見えた。泥に汚れた、小さなキーホルダー。昔、俺が修学旅行のお土産に買ってきた、歪な形の木彫りのフクロウだった。
それを拾い上げた瞬間、キーホルダーの裏に挟まれていた、折り畳まれた紙片が指先に触れた。震える手でそれを開くと、そこには陽の、見慣れた少し癖のある文字が並んでいた。
『湊へ。ごめん。勝手にいなくなって、本当にごめん。
お前には、痛みじゃなくて、温かいものだけを感じて生きてほしい。
俺が知ってしまったことは、お前を壊す毒だ。だから、俺が全部持っていく。
お前は何も知らずに、伯父さんを信じて、笑って生きてくれ。それが俺の唯一の願いだ。
俺たちの繋がりは、本物だった。だから、俺は大丈夫。お前がどこかで笑ってくれていれば、それでいい。
さよならは言わない。いつか、全部が時効になった未来で。
陽』
手紙を持つ手が、わなわなと震えた。涙が溢れて、文字が滲んでいく。馬鹿だよ、お前は。一人で全部背負い込んで。俺が壊れるのを心配してくれたのか?お前がいない世界で、俺が笑って生きていけるわけないだろ。
俺は天を仰いだ。伯父さんへの憎しみよりも、陽への愛しさが胸を締め付けた。あいつは、友情というものの究極の形を、その身を以て俺に示してくれた。共にいることだけが、友情じゃない。相手の幸せを願い、時にはそのために自らを犠牲にすること。その孤独で過酷な決断を、あいつはたった一人で下したのだ。
俺はもう、陽を探すのをやめようと思った。あいつの願いを、俺が踏みにじるわけにはいかない。
陽が守ろうとした俺の人生を、今度は俺が、自分の意志で生きていかなければならない。真実を知ってしまった痛みも、陽が一人で背負ってくれた孤独も、全部引き受けて。それが、あいつの覚悟に応える、唯一の方法だ。
共鳴痛の繋がりは、もうない。陽の痛みも、温もりも、もう二度と感じることはないだろう。けれど、俺の心の中には、陽という人間の存在が、確かな温かい残像として刻み込まれている。
いつか、陽の言う「全部が時効になった未来」で、俺たちは再会できるだろうか。その時が来たら、文句の一つでも言ってやろう。「お前がいなくて、全然大丈夫じゃなかったぞ、馬鹿野郎」と。
夜風が、涙で濡れた頬を優しく撫でていった。それはまるで、遠いどこかにいる親友からの、最後の慰めのようだった。俺は木彫りのフクロウを強く握りしめ、ゆっくりと前を向いて歩き出した。陽が守ってくれた明日へと続く道を。